ちょっとヨクナレ ~読書と日記~

自然科学、歴史、ノンフィクション等の読書記録

この悲劇から、学ぶべき教訓はまだ残っている。「宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか」  

宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか
萩原 幹生



僕は坂出市で生まれ、育った。
瀬戸大橋は小学校の頃に着工し、高校の頃に竣工した。
まさに瀬戸大橋によって、故郷が大きく変わろうとする時代だった。
その瀬戸大橋の竣工等を祝う場で、何度も聞いたのが「紫雲丸事故」だ。

悲惨な紫雲丸事故を二度と繰り返さないために、瀬戸大橋が望まれた。

そう何度も聞かされたものの、では紫雲丸事故とはどんな事故だったのかを、
改めて確認したことがなかった。
それで良いのかとは長く思っていたが、自身の日常と関係がないと、正直後回しにしていた。

しかし、先日出会ったのが本書である。

数十年ぶりに宿題を遂げるような感覚で、本書を読んだ。

さて、1955年(昭和30年)5月11日に発生した紫雲丸事故について述べる前に、
まずは瀬戸大橋以前の瀬戸内海の交通事情を知る必要がある。

紫雲丸は、当時の日本国有鉄道(国鉄)が有する車載貨船である。
本州(岡山)の宇野、そして高松の海上輸送手段として、国鉄の車両そのものを積載し、日々往復する。
紫雲丸は14両を輸送する規模で、1日12便。
他にもより大きな車載貨船が往来しており、宇野―高松間の海上交通は際めて盛んだった。
紫雲丸等の海上輸送のダイヤがどの程度過密であり、また厳格であったのかは僕は知らないが、
海上輸送と陸上輸送を分単位で連絡させるというのは、大変な仕事だったろうと思う。
また当時、最新技術のレーダー民間で利用され始めており、紫雲丸にも建造当時から着装されていた。


さて5月11日、岡山側では、紫雲丸に先立つ6時10分、同様の大型貨車運航船「第三宇高丸」が出航していた。
こちらは穏やかな天候だったという。
一方高松側では、早朝から濃霧警報が発せられている。
今でも年に霧によって海上が全く見通せない日が数日あるが、おそらくこのような状況だったのだろう。
それでも6時40分、霧がやや薄まっていたため、紫雲丸は出航した。
だが海上に進むにつれか、時間が経つにつれかは分からないが、次第に霧は濃くなっていく。

視界が100mを切るような状況―紫雲丸自体が約80mあるので、実際は舳先から先は殆ど見えないような状況の中、
ーダーで第三宇高丸が紫雲丸を確認。針路を衝突予防のため(相互に左舷側で行き違いのため)変更し、汽笛を鳴らす。
紫雲丸では汽笛を確認。だがここでなぜか針路を左に転回し、左舷側を通り抜けようとしていた第三宇高丸の正面に進む。
そして、第三宇高丸が紫雲丸の右舷側に衝突。
船体は損傷し浸水。電源も喪失。
損傷個所からの浸水を防ぐため、第三宇高丸は接触したまま前進。
だが紫雲丸は横転し、沈没した。

衝突から沈没まで、わずか5分。

当時この船には修学旅行の小学生が多数乗船していた。
衝突直後から、どう動けば良いのかも分からない(沈没の危険があるかなんて、衝突直後には分からない)。
泳げない子供も多い(小学校にプールが設置され、水泳教育が徹底されるのは、この後だ)。
昭和30年、厳しい家計の中送り出してくれた家族へのお土産を、簡単に捨てて逃げることなんてできない。

衝突から5分以内に、沈没すると判断して離船するなんて、大人でも無理だろう。

男子の多くは甲板にいたが、女子は船内にいた。それだけでも、大きな差だ。

紫雲丸には、乗客が781名いた。うち犠牲者は、168名。
そのうち修学旅行中だった子どもは、108人。男子19人、女子81人だ。
WIKIでは大人も含む内訳が整理されているので、引用しておく。

・ 紫雲丸関係者 2人(船長他1人)
・ 一般乗客 58人
・ 修学旅行関係者 108人 〔児童生徒100人(男子19、女子81) 引率教員5人 関係者(父母)3人〕
- 愛媛県三芳町立庄内小学校:30人(児童77人中29人、PTA会長1人)
- 高知県高知市立南海中学校:28人(3年生117人中28人)
- 広島県木江町立南小学校:25人(6年生97人中22人、引率教員3人)
- 島根県松江市立川津小学校:25人(6年生58人中21人、引率教員5人中2人、父母3人中2人)


本書は紫雲丸事故の後に国鉄に入り、昭和51年から宇高連絡船の船長を務めた著者が、
紫雲丸事故で犠牲となった小学校を行脚する中で、遺族との話に触発され、
当時の資料等を収集し、事故の背景・原因、事故後の慰霊祭や国鉄との折衝、
以降の安全対策などを整理し、丁寧に辿っていくもの。
当時の新聞記事やそれに掲載された写真、海難審判の裁決理由等、原資料も数多く掲載しており、
まさに紫雲丸事故の悲惨さと理不尽さを痛感する一冊だ。

特に、横転・沈没する中で逃げ惑う人々や、
引き上げられて筵の上に安置された遺体等(もちろん布は被せられている)の写真には、
本当にこの事故が、瀬戸内海の海運史の中でも特筆すべき事故だったことを突きつけられる。

事故の直接の原因は、船長が針路を左に転回したことだ。
証言によれば、レーダーを確認していた船長は、「あら! おかしい」と言ったという。

裁判でも種々推測されているが、著者は同じ航路の船乗りであった経験から、
船長自身が当時普及し始めていたレーダーの使用に不慣れなのに、
自身でレーダーを確認することに固執していたことにより、
レンジ(範囲)やレーダーに映る光跡の解釈などを誤り、第三宇高丸の位置を誤解していたのではないかと指摘する。

船長自身も犠牲となり、真相は不明だ。

また本事故以降、様々な改善がなされ、客車輸送はなくなり、船体の構造は変更され、
海上保安庁による停船勧告基準も厳しくなった。

そして今や、瀬戸内海における岡山―香川間の輸送は、瀬戸大橋が主である。
紫雲丸の犠牲は無駄にはならず、また二度と繰り返されることはないだろうと思われるが、
そうであっても、命が失われたことを正当化できるものではない。

また、安全がほぼ保証されたからといって、事故を忘れて良いということにはならない。
むしろ、こうした事故が忘れられた時代に、
本来はこの事故の教訓を生かして防止すべき事故が、発生するのだろう。

それは、失われた命に対して申し訳が立たない。

また、日本各地に起こる様々な事故・災害についても、
僕らはきちんと知り、伝えていく義務があるのだろう。

坂出に生まれ育った僕でさえも、紫雲丸事故をきちんと知るのに、数十年をかけてしまった。
できるだけ多くの人に、本書が読まれることを望む。
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