ちょっとヨクナレ ~読書と日記~

自然科学、歴史、ノンフィクション等の読書記録

記憶をコントロールする――分子脳科学の挑戦 (岩波科学ライブラリー)   

記憶をコントロールする――分子脳科学の挑戦 (岩波科学ライブラリー)
井ノ口 馨



生命科学には、大きく分けてふたつの潮流があります。「氏の生命科学」と「育ちの生命科学」です。



「氏の生命科学」とは、遺伝的な現象の研究のことだ。僕が興味がある進化はもちろん、生物地理学についても、分類学においても、現在はDNAを元にした研究が主流である。
DNA、それこそが「氏の生命科学」の根本原理であり、今後DNA研究から分かる新発見はあっても、DNAを超える大発見は「氏の生命科学」では有り得ないだろう。

一方、「育ちの生命科学」は、経験や環境による個体の変化を探るものだ。
例えば脳科学であり、本書がテーマとしている「記憶」のメカニズムもまさにそれ。
ある個体が、どのように記憶を獲得して成長していくか。それか個体の生態にどう影響するか。
それが「育ちの生命科学」である。
こちらの分野では、まだDNAのようなコペルニクス的転換は無い。

ただ、記憶を獲得する、思い出す、長いこと保持する、記憶同士を連合させる、記憶を作る、といったメカニズムについては、かなり分子レベルで解き明かされつつある。
それを平易に説明してくれるのが本書である。

基本的事項から行けば、まず記憶には2種類ある。
「陳述記憶」と「非陳述記憶」だ。
「陳述記憶」とは、言葉によって他人で伝達できる記憶である。
 これも大きく2つに分けられる。
 「エピソード記憶」…個人的な体験に由来した記憶
 「意味記憶」…知識や一般常識に関する記憶
一方、「非陳述記憶」とは、手続き記憶や条件反射だ。
よく記憶喪失の人が自身の名前や過去の経験を忘れているが、車の運転等を覚えているのは、
この「陳述記憶」のみの喪失であって、「非陳述記憶」は残っているということだろう。

さらに、記憶のタイムスパンでも2つに分けられる。
「短期記憶(最近の記憶)」と「遠隔記憶(過去の記憶)」だ。
日常的にも(学校とかで)時折り耳にするフレーズだが、脳科学的には明確に区分される。

最近の記憶とは、人間だと半年前か、せいぜい2年前まで。
遠隔記憶とは、それ以前の記憶を指す。
なぜかと言うと、最近の記憶を思い出すのには、脳の「海馬」という部分を必要とする海馬依存的記憶だが、
遠隔記憶は海馬を必要としない、という明確な違いがあるためだ。


ところで、「脳細胞は増えない」という俗説がある。
本書では「カハールのドグマ」と言っているが、そもそも
シナプス結合を発見したサンティアゴ・ラモン・イ・カハール(19世紀~20世紀のスペインの解剖学者)が、
「ニューロンは大人の脳では分裂しない」と主張したことに端を発する。

ここから、「脳細胞は増えない」という認識(ドグマ)が定着した。

だが1962年、アメリカのジョゼフ・アルトマンが成獣のラットの脳でニューロンが増えているのを確認。
さらに1998年には、人間の脳でもニューロンが増えていることが確認されている。

実際には、ニューロンは大人でも増加する(神経新生という)のだ。

そしてここからが本書の面白さなのだが、
海馬におけるニューロンの増加=神経新生により、海馬のニューロン・ネットワークが再構築。
これによって、古い記憶を海馬から消去し、大脳皮質に移しているとのこと。
実際、海馬での神経新生を抑えると、ずっと記憶は海馬に残るのだ。

このメカニズムが見えたことで、最近話題となっているPTSDの予防策が見えている。

海馬にある記憶は関係の無い記憶と連合しやすいため、
恐怖体験と、その時の事象(人混みや乗り物等)が連結すると、PTSDとなると考えられる。

そこで恐怖体験後、速やかに海馬での神経新生を促進(DHAやEPAの摂取)すれば、
他の記憶と連結せずに大脳皮質に移り、古い記憶となることから、PTSDの予防となる可能性があるという。

脳のメカニズムは、極めて面白い。

そして、本書冒頭に記載されたとおり、「氏の生命科学」には、まだDNAのような大発見はなされていない。
もしそれが解明されれば、「育ちの生命科学」がDNAにより大発展したのと同様、
「氏の生命科学」も大きく展開するだろう。

ただ、この点で、応用面ばかりを重視する近年の社会情勢を、著者は危惧する。

「応用研究は大事だけれども、行き過ぎた応用重視の風潮は、長い目で見ると基礎研究が衰退するだけでなく、実は、本当にインパクトのある応用研究の衰退につながってしまうのではないか。」

その良い例が、本書でも研究手段として利用されているGFP(蛍光蛋白質)だ。

GFPは、下村氏がオワンクラゲから発見した。
この蛍光蛋白津を特定の蛋白質のマーカーとすれば、容易にその蛋白質を含む細胞を識別できるようになる。
特定の蛋白質の分布を可視化できることの手法は、2000年以降、生命科学の研究の一大手法となり、
下村氏は2008年(平成20年)にノーベル化学賞を受賞した。
(この経緯等は、「光る生物の話 (朝日選書)」(レビューはこちら)に詳しい。)
このGFPですら、下村氏の生物発光メカニズム研究の過程で「ついで」に見つかったものだ。

基礎研究をおろそかにする日本の昨今の風潮は、10年、50年、100年後の日本の応用研究の衰退をもたらしかねない。
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