ちょっとヨクナレ ~読書と日記~

自然科学、歴史、ノンフィクション等の読書記録

未盗掘古墳と天皇陵古墳  

未盗掘古墳と天皇陵古墳
松木 武彦



時折、考古学上の発掘ニュースが報道される。

ほう、へえ、と感嘆しているが、本書で改めてわかったことがある。

それらは、集落や邸宅等の遺構発掘の結果である。
一方で、「未盗掘古墳の墓室を発掘した」というニュースを目にすることは全くない。

それは発見が少ないためかと思っていたが、そうではなかった。
「未盗掘古墳は発掘しない」というコンセンサスがあるのだ。

高松塚古墳での保存ミスもあった。
また、様々な分析技術も進んでいる。
だから発掘しても、
・きちんと保存できるのか。
・全ての情報を収集できるのか。
という懸念が先行するようだ。

保存技術の有無はもとより、
発掘において「何に着目するか」というポイントも、以前は有機体は除外していたが、
近年は非常に細かい繊維片であったり、
また土壌中の花粉など、分析対象と技術は日々進歩している。

今発掘すると、そうした「将来注目される遺物」を損なってしまうのではないか、ということのようだ。

しかし、筆者は運良くというべきか、2基の未盗掘古墳を発掘するという機会に恵まれ、
本書ではその顛末が記載されている。

その上で、次のような見解を示している。


p220
「もし未盗掘古墳の調査が全面的にとりやめられてから数十年がたったとき、日本の考古学と古代史の知見の蓄積や更新にはブレーキがかかり、調査の知識も技術も、それをになう人材そのものも細ってしまうのではないかと憂慮する。そうなると、託すべき未来の考古学の発展そのものがおぼつかなくなってしまう。
明確な学問的目標を据え、そのための知識や技術、人材の確保と組織化がきちんとなされ、綿密な計画のもとに行われるのであれば、未盗掘古墳は発掘されてもいいのではないだろうか。」

全くそのとおりである。

「文化遺産の眠る海 水中考古学入門」(レビューはこちら)では、
これからの考古学である水中考古学の人材・技術育成が遅れ、
そのために日本近海の水中文化遺産や、世界の海に眠る日本由来の水中文化遺産の研究・保護に、
いずれ日本が手を出せなくなる懸念が示されていた。

本書は、それと同様の停滞が、実は通常の考古学界にもあることを指摘している。

「掘ってはならないもの」として、もう一つ天皇陵がある。

巨大な天皇陵や、明確に特定皇族の陵墓に治定されているものはともかく、
いわゆる「陵墓参考地」は、いつかこれを発掘できる日が来るかもしれない。

しかし、現在のように未盗掘古墳は掘らないというスタンスでいれば、
その「いつか」の時には、必要な人材も技術もないみとになるだろう。

むやみに発掘することは当然避けるべきである。

しかし、「やってみる」ことによってこそ、初めて得られる技術もあるし、課題も発見できる。
未知の領域が存在する分野では、手の届く範囲の研究だけをやっても意味がないのだ。


それは、
「はやぶさ 世界初を実現した日本の力」(レビューはこちら)において、日本の宇宙探査におけるスタンスに対して、はやぶさのプロジェクトリーダーであった川口淳一郎が指摘した問題と同じである。

「今見える」限界を意識して、その中で活動するのか。
それとも、その限界を拡大する活動を行うのか。

どうしても日本は失敗を恐れ、小さく狭く考えがちだが、
やはり必要なのは開拓精神であるだろう。




【目次】
第1章 未盗掘古墳とは何か
1 古墳を発掘するということ
2 未盗掘の条件
3 未盗掘古墳の発見史
第2章 二つの未盗掘古墳
1 雪野山古墳の発掘
2 雪野山から勝負砂へ
3 勝負砂古墳の発見
第3章 もし天皇陵古墳を発掘すれば
1 天皇陵とは何か
2 掘られた三つの大王墓
(1)大王をめぐる品々-メスリ山古墳の発掘-
(2)掘りあばかれた「天皇陵」-大山古墳の発見物-
(3)最後の大王墓-見瀬丸古墳の巨大石室-
3 人類の遺産ついての天皇陵古墳
第4章 なぜ古墳を発掘するか
1 はばむ論理、進める論理
2 未盗掘古墳を発掘するとしたら
3 天皇陵古墳を発掘するとしたら

【メモ】
p005
「未盗掘古墳」と「天皇陵古墳」に共通しているのは、「発掘してはならないもの」という政治的・社会的な制限

p016
この本での「未盗掘古墳」とは、約1300-1800年前に造られてから、一度も堀荒らされていないもの。
未盗掘古墳は全国で年間数十基、ときには100基以上も発掘されている。

p066
「威信財」有力者が身分や権威を示す品物。
3世紀中頃-4世紀 三角縁神獣鏡をはじめとする鏡。
5世紀 武具、特に甲(よろい)や冑(かぶと)

p97
三角縁神獣鏡:型式変化は10段階に分かれる。
最も新しいものでさえ、古墳時代の途中から出る須恵器と一緒に出ることは、わずかな例外を除き無い。
製作は4世紀のうちに終了していた可能性が高い。

p101
発掘が盗掘と異なるのは、遺物の位置関係があとからでも復元可能なように、その情報を全て記録すること。
「うまく掘れたかということよりも、うまく記録できたかという点に、発掘の成否はかかっている。発掘の真髄は、記録にある。」

p121
岡山:天狗山古墳
古墳の完成後に埋葬したのではなく、埋葬をしてからその上に古墳を作った。
これは新羅の古墳の造り方と同じ。
古墳の築造が後か先かということは、葬儀全体の根本に関わる大きな思想の違い。

p148
金属製品の表面に残った有機質のかけら(古代の繊維など)は、その位置自体も重要。
最近の発掘では、これを吹き飛ばして金属をきれいに出すようなことは無くなり、
写真も「きれい」にしないで撮る。

p152
古代の皇族の陵墓指定地が近畿から遠く離れた都県にある
=地方もまた万世一系の天皇のもとにあることを見せるよりどころとして設けられたもの。
したがって、なぜその皇族の墓がそこにあるのかという根拠がはっきりしないものもある。

p153
皇室典範では、
「陵」天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墳墓
「墓」それ以外の皇族の墳墓

陵墓を実在する古墳にあてはめること=「治定」
現在の陵墓は、明治時代を中心に、1949(S24)までに治定されたもの。

p161
前方部はスタイルによって大きさが変わる。
後円部の大きさこそが、葬られた人の力や地位を反映する。
そこで後円部に注目すると、
最古の前方後円墳:箸墓古墳と、最後の巨大前方後円墳と見られる見瀬丸山古墳ともに、
直径が約150m。
3世紀-6世紀後半まで、この大きさが最高の権威を持つ人の墓の基準と考えられていた可能性がある。

これを踏まえて実際の古墳を見ると、18基。このうち
天皇陵に治定 8基
皇族の女性の墓に治定 4基
陵墓参考地 3基
ノーマーク 3基 このうち2基が岡山、1基が奈良。

だいたい中ごろ、5世紀前半頃から中頃に、後円部の大きさはピークとなるる

3世紀後半-4世紀前半までは奈良盆地の東南部で5代続く。
4世紀中頃から盆地の北部に移って2代。
4世紀後半には大阪平野に移る。
5世紀から6世紀前半までの間に、河内(大阪府南東部)、和泉(大阪府南部)、吉備(岡山)に、数基ずつ。
6世紀後半に奈良に戻るが、巨大古墳はれで終わる。

よって、3世紀後半-6世紀後半の間に、
直径150mの巨大後円部に葬られる人物が18人現れている。

p199
天皇陵を発掘しても、遺骨は残っていない。未盗掘古墳だった雪野山や勝負砂でも遺体は残っておらず、
青銅イオンの影響で断片がわずかに形をとどめていた程度。

また、渡来系の特徴は、天皇陵古墳の1000年前から日本にふつうに見られる形質。

DNAは来歴を示すだけで、個々人の出自を示すものではない。

副葬品も、古墳にはそもそも渡来系文物が含まれており、
地位の高い人を葬った大きな古墳ほど、渡来系でない品を副葬品から探すのが難しくなる。

また一方で、列島固有の風習である埴輪は、前記の18基のうち17基にある。
唯一埴輪のない見瀬丸山も、石室や棺の形は列島で成立したもの。

p206
もし勝負砂古墳の発掘が、大学でなく、国がじかに行政指導できる地方自治体によるものであれば、未盗掘石室の開封は止められていた可能性が高い。
(メモ注、筆者は未盗掘石室の発掘に悩んだうえで結論を出しており、何でも発掘すべきという立場ではない。)

p220
「もし未盗掘古墳の調査が全面的にとりやめられてから数十年がたったとき、日本の考古学と古代史の知見の蓄積や更新にはブレーキがかかり、調査の知識も技術も、それをになう人材そのものも細ってしまうのではないかと憂慮する。そうなると、託すべき未来の考古学の発展そのものがおぼつかなくなってしまう。
明確な学問的目標を据え、そのための知識や技術、人材の確保と組織化がきちんとなされ、綿密な計画のもとに行われるのであれば、未盗掘古墳は発掘されてもいいのではないだろうか。」





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