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ちょっとヨクナレ ~読書と日記~ ホーム »2017年07月
2017年07月の記事一覧

災害下で伝えることの、苦しさ。「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙」  

河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙



日常では滞りなく受信・発信がなされるが、
未曽有の大災害の中では、情報をどう確保するかが、生死を左右する。
どこが安全なのか、どこに救助が来ているかという情報はもちろん、
発災時には、「何が起きているのか」といった基本的な情報すら、
一個人が掴むことは困難だ。

東日本大震災においては、ラジオが役に立ったという話があったが、
だが、着の身着のままで放り出されたり、
電気の確保すら困難な状況下では、ラジオも難しい。

日常的メディアで、(利用時に)電気を使わないもの。
そうすると「新聞」というのが真っ先に思いつくが、
誰もが被災者という状況であり、新聞社も記者も、例外ではない。
東日本大震災。
死者15,000人を超える大災害の中、地元の新聞が発行できなくても、それを咎める人はいなかっただろう。

だが、「情報を伝えること」を日々の使命として生きている河北新報社の人々は、
様々な苦難と葛藤の中、被災者の目線から、大震災を伝える新聞を発行し続けた。

僕らは「新聞」という成果物だけを見るが、
その一文字、写真、レイアウト、印刷。輸送に至るまで、
数多の人々が関わっている。

本書は、未曽有の大災害の最中、
被災者のための新聞を発行し続けた河北新聞社のドキュメンタリーである。

美談や成功譚ばかりではない。

自身や関係者も被災者・犠牲者である苦悩、
被災者のために、何を、どう伝えるかという苦悩。
「伝える」ことを優先する葛藤もあれば、「伝えたが救えなかった」苦しみもある。
それらも含めて、全てを記録したのが本書だ。

今後も大災害は起こる。
その中で、情報の断絶は必ず発生するし、地元紙が同様に新聞を発行できるとは限らない。
本書のとおり、「被災地で新聞を発行すること」は、とてつもない困難を伴うからだ。

そうであればこそ、本書は他と代え難い、貴重な記録である。

また、「伝えること」に真摯であるがゆえ、
東日本大震災を機に人生が変わってしまった人々も少なからずいる。
本書は、記者に限らず、「伝えること」を志向する人々―、
特に若い人々に、ぜひ読んでおいていただきたい。

【目次】
第1章 河北新報のいちばん長い日
第2章 気仙沼から届いた手書きの原稿
第3章 死者と犠牲者のあいだ
第4章 配達が大好きだったお父さんへ
第5章 窮乏するロジスティクス
第6章 福島原発のトラウマ
第7章 避難所からの発信
第8章 被災者に寄り添う
第9章 地元紙とは、報道とは

category: 事件・事故

thread: 読んだ本の紹介

janre: 本・雑誌

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人は、記憶で生きている。「記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)」  

記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)
坪倉優介



「記憶を失くす」というシチュエーションは、様々なフィクションで用いられている。
そのため、「記憶喪失になった者」の漠然としたイメージはあるが、
実はそれはかなり都合の良いイメージであったことを、痛感した。

本書は18歳の時に、バイク交通事故で記憶を失った美大生、坪倉優介氏の物語だ。

記憶喪失という現実は、極めて厳しい。
「過去の記憶が無い」というレベルではない。
目の前のモノが何かが分からない。モノの名前ではなく、それが「何か」が分からない。
文字も読めない。色も区別できない(色や音といった抽象的なモノを識別するには、やはり言語化が必要なのだ)。
食べる、という行為が分からない。辛い、甘いといった感覚すら忘れている。
朝は起き、夜は眠る「ものだ」という日常習慣が分からない。

まさしく赤ん坊のような状態だ。
だが、赤ん坊―乳幼児は、そうした「分からない」ということすら「分からない」。
自我すら形成中というのが、乳幼児が全てを受け入れ、驚くべきスピードで成長する秘密なのだろう。

たが著者坪倉氏の場合、自我だけは確立されている。
すなわち、「何も分からない」ということだけは「分かる」。
これがどんなに恐ろしい状態なのか。
本書を読むことでしか、それは理解できない(それでも、理解できるのは坪倉氏の苦しみの数%だろう)。

また、記憶喪失にあるとはいえ、外見は18歳の青年である。
そして大多数の知人は、本書を読む前の僕のように、本当の「記憶喪失」という状態が理解できない。
そのため、日常的な付き合いの中には、読んでいて辛くなるような誤解・悪意もある。

それでも坪倉氏は、新しい自分自身を生きるために「絵」に執着し、
そして着物の「染色」という世界に新しい人生を創り上げていく。

記憶喪失にある息子を大学に復学させたり、
ある程度日常生活に慣れたとはいえ、坪倉氏の希望にそって一人暮らしをさせるなど、
ご両親の接し方や対処については、賛否両論あると思う。

だが、記憶喪失という想像もできない世界に陥った息子に対し、
どのように接するべきか、そこに正解は無いだろう。
現に本書後半の文章を読むと、前半の記憶喪失が信じられないほどだし、
坪倉氏は染色家として、現在も活躍しているようだ。

「記憶喪失」という状態に、自身や周囲がなることは、本当に稀だろう。
だから本書が「役に立つ」「参考になる」というものでは、ない。

だが人間は、これほどまでに柔軟で強い存在なのだと、勇気づけられる一冊だ。

【目次】
第1章 ここはどこ?ぼくはだれ?―’89.6~’89.8
第2章 これから何がはじまるのだろう―’89.9~’90.3
第3章 むかしのぼくを探しにいこう―’90.4~’91.3
第4章 仲間はずれにならないために―’91.4~’92.3
第5章 あの事故のことはもう口に出さない―’92.4~’94.3
第6章 ぼくらはみんな生きている―’94.4~’01.5

category: ノンフィクション

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「自分の旅」を楽しむヒント。「ニッポン旅みやげ」  

ニッポン旅みやげ
池内紀



著者はドイツ文学者。多くの訳書があるので、知らないうちにお世話になっていることも多いだろう。
だが本書はそうした文学話ではなく、
日本各地の旅の途中、ふと見つけた「話したくなるモノ」を積み上げた一冊。

40章で構成されているが、それはすなわち40の町の物語ということ。
それもガイドブックで語られるような名所旧跡ではなく、
その土地に生きる人々の記憶が刻み込まれたような建物等が紹介される。

視点としては、主に明治以降。

例えば三等郵便局や、「据置郵便貯金碑」。
ある店の床に残された鉤十字。
門構えにつけられた「誉之家」というプレート。
それぞれに、明治から昭和にかけて、日本の歩みが刻み込まれている。

これらを見つけた著者は、人々が何を思い、何を願ったのかに思いを馳せる。
著者と共に旅を楽しむようなつもりで、一日一章読むのもいいだろう。

一応アクセスも記載されているが、多く取り上げられているのは、小さな商店。
本書を手に訪ねるような人も少ないだろう。
むしろ本書を参考に、自身の旅を充実させていきたい。

それにしても、香川が無かったのが残念。
下記のうちに、ご自身の町があれば、ぜひ。

北海道・札幌市/宮城県・蔵王町平沢/神奈川県・横浜市/埼玉県・秩父市/長野県・軽井沢町
愛知県・有松/石川県・金沢市/京都府・中書島/兵庫県・福崎町/愛媛県・西条市/宮城県・石巻市
栃木県・黒磯/群馬県・桐生市/東京都・八王子市恩方/山梨県・長坂/新潟県・浦佐/奈良県・奈良市中
兵庫県・高砂市/山口県・下関市/鹿児島県・指宿/宮城県・白石市/茨城県・結城市/東京都・浅草・鷲神社
静岡県・静岡市丸子/山梨県・富士吉田市/愛知県・豊橋市/長野県・駒ヶ根市/滋賀県・水口町/三重県・関
北海道・名寄市/福島県・柳津/群馬県・川原湯/東京都・旧品川宿/山梨県・河口湖/長野県・須坂
新潟県・塩沢町/兵庫県・神戸市/鳥取県・若桜町/福岡県・香春町

【目次】
1 影法師たち
2 三等郵便局
3 祭礼指南
4 値切り方

category: 旅行

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2017/7/15-7/22 買った本  

〈2017/7/15-7/22 買った本〉

最近ブックオフでの衝動買いが激しいので、Amazonの読みたい本リストが溜まる一方。
そこで、古本価格が下がっている本などをまとめて入手した(中には新刊もある)。
冷静に考えれば、バーチャルな積読がリアルな積読になったのだが、
まあ読みたい本が手元にあるのは良いことである。

レビュー出来るのはまだまだ先なので、例によってとりあえずのセレクトした理由と共に紹介。
立花隆の書評本でチェックしたためか、今回は宇宙関係が多い。

▼アポロ1号から始まった、月への有人探査ミッション。上下巻の大部な本だが、実際にアポロ計画に携わった多くの宇宙飛行士にインタビューした上で書かれたドキュメンタリー。これはじっくり読みたい。




▼こちらは日本人宇宙飛行士に関する本。
刊行当時も著者の独特の風貌で話題となり、なんだか便乗ブームだなあと感じて敬遠していたが、
かなり良い本との噂を聞く。なので、続編と共に購入。
そういえば、宇宙飛行士本人の本ってのは多いけど、家族の視点の本は少ないよね。




▼立花隆関連。「旧石器発掘ねつ造」事件はショッキングだったが、今から思えばSTAP細胞騒動の布石だったかのよう。この事件については詳しく知りたいが、かといって余り楽しい話題でもない。
手頃に状況を知るために、この本を選択。


▼日本書紀・古事記などにおける神々のモチーフや、各神話の歴史的な意味合い等に関する本は多い。
だが、そもそも日本書紀って、どのように成立したのか? 
その素朴な疑問を、当時の音韻学を踏まえて精査していく。
日本における丁寧な文献学の成果として、楽しみ。


▼暗号、古代文字というと必ず出てくるロゼッタストーン。その解読史をまとめたもの。
これは読んでおかなきゃな、という感じ。


▼ヒトラーは生きていてた!等のトンデモ話がある。
遺体を検視したソ連が隠蔽したのは、実はヒトラーではなかったためだ―等のストーリーが多いが、
実際のところ、検視状況はどうだったのか。本書が全てかどうかは知らないが、
歴史の事実をまずは知りたい。


▼1998年。自殺したいという女性に、ネット上で知り合った人物が青酸カリを送り、実際にそれで自殺。
送り主も女性の死を知り、自殺。
当時、ネットの闇的な雰囲気で語られていた印象があるが、実際の事件はどうだったのか。
独特な事件だっただけに、何が起こっていたのかを知りたい。


▼著者は、NHKのサイエンスZEROのコメンテーターも務める、科学ライター。
「仮説」というモノに焦点をあて、科学を論じる、よう。
ちょっとしたヒントが得られるかもとして購入。


▼奇書である。
「テロ爆弾」を軸に、その構造(といっても昭和前期のものだ)と歴史について、
テロ爆弾を造ったことがある人物ならではの視点による本。
面白いといったら不謹慎だが、こんな本があったんだなあ。


▼義手・義足を創っている会社について。もっと詳しく知りたい。


▼特に日本赤軍によるハイジャック史。現在からは想像もつかないが、かつては日本がテロ輸出国だった。


▼探検ものとして評価の高い一冊。いつか読もうと思っていたもの。


▼これもベストセラーとなった一冊。僕の通常のセレクションからは外れているが、
この本も、いつか読むだろうなと思っていた。


▼カミキリムシって良いよね。

category: 雑記:日々のこと

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今年の山へは、スキルを持って。「山岳遭難は自分ごと 「まさか」のためのセルフレスキュー講座 (ヤマケイ新書)」  

山岳遭難は自分ごと 「まさか」のためのセルフレスキュー講座 (ヤマケイ新書)
北島 英明



山岳遭難や救助の事例集が多々刊行されているとおり、
楽しみの山を悲しみの山にしないよう、様々な方が啓発に努めている。

それを読むだけでも役に立つだろうと思うのは、
遭難は誰にでも起こり得ることであるだけでなく、
一度起これば、人生で最後の試練と成り得る可能性があるためだ。

例えば香川県では、1,000mを超える山は竜王山と大川山の2座しかない。
それでも残念ながら本書を読み終えて幾日も経たない2017年3月23日、
香川県内の五剣山(標高375m、ただし崩落の危険があるため山頂までは行けない)で、
滑落による死亡事故が発生した。

また、標高が低くとも、道迷いはいつでも起こり得るし、
一人で散策中に足首を捻挫することも有り得るだろう。

そうしたトラブルに、どこまで落ち着いて対処できるかが、
「遭難」になるか否かの分岐点だろう。

そして、トラブルへの対処能力は、様々なトラブルに対する知識と経験が左右する。

本書は、そうしたトラブルに対する知識、セルフレスキューに関するテクニックを、
東京都山岳連盟遭難救助隊隊長・日本山岳協会遭対常任委員会委員・日本レスキュー協議会委員という肩書を持つ著者が丁寧に誌上でレクチャーしてくれるものだ。

どのような装備が必要かといった基礎知識から、
助けを求める際の優先事項や伝達事項、
負傷者の搬送方法、補助ロープの使い方、
熱中症・低体温症に対する山中での対処法など、
多くの図と共に解説がなされている。

そしてそこで語られるのが、「一度やってみておけば良いだろう」という点。
本書によって知識は得られるとしても、
それがスキルになるまでには、やはり経験が必要だ。
それには実践あるべきだが、その本番が遭難時ともなれば、やはり事前に試し、
自分にできるスキルを高めると共に、何ができないかも見極めておく必要があるだろう。
それによって、正しい状況判断が可能になる。

本書では、実際の遭難事例が随所に挿入されており、
セルフレスキューを身につけていなかったことによる悲劇が痛感される。

上記のとおり、日本一小さく、山も低山が多い香川県でも、死亡事故は起こる。
それを踏まえ、ぜひ多くの方が本書を手に取ることを願う。

【目次】
第1章 山行計画
第2章 搬送法
第3章 補助ロープの使い方
第4章 救急法
第5章 ビバーク

category: 技術

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「本」がもたらす、高揚と混乱。「世界を変えた10冊の本 (文春文庫)」  

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)
池上 彰



本来、個体の知識や経験は、それ自体に留まるものだ。
だからこそ、その個体のみが自身の知識・経験を活用し、次世代に遺伝子を残すことが可能となる。

ところが人間は、高度な言語によって個体間における知の共有を可能にした。
その結果、共同社会での生存性が向上すると同時に、共同社会間での競争も激化した。

さらに人間は、言語を「文字」として刻み込むことを学ぶ。
これにより、人間の「知」は時空を超えることが可能となり、その発展は加速化された。

ただ、文字によるインパクトはもう一つ在る。

いかなる時空の人間であっても、文字に刻まれた「知」を共有することにより、
同一の共同体に属することができるようになった。
これは、人間以外にはありえない共同体である。

この、知を刻み込んだ「文字」の集合体が、形式は様々なあるとしても「本」である。

言い換えれば、人は一冊の本を核として、知の共同体を形成できるということだ。

そして、その「知の共同体」において、
実社会に対する行動を促進・制限されれば、それは人類の行動を変化させることになる。

本書で池上氏が選択しているのは、そうした「知の共同体」の形成によって、
人類の行動を変化させた「本」だ。
それを称して、「世界を変えた」と言っている。

収録されているのは、次の10冊。
【目次】
第1章 アンネの日記
第2章 聖書
第3章 コーラン
第4章 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
第5章 資本論
第6章 イスラーム原理主義の「道しるべ」
第7章 沈黙の春
第8章 種の起源
第9章 雇用、利子および貨幣の一般理論
第10章 資本主義と自由

聖書やコーランなどの宗教的書物も有るものの、
一方で経済面での指針となった書物も多い。
これらは一般人には馴染みがないが、
近現代社会において政治経済を左右する層にインパクトを与え、
知らず知らずのうちに、僕らの生活に多大な影響を与えている書物である。

現代社会を形成するに際し、どんな本が人類の行動を左右したのか。
本書はそうした視点から、各書物のベーシックな概観を得ることが可能であり、
これらの本に興味が無い人ほど、読んでおいて損は無い一冊だろう。

category: 読書

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「言葉」を巡る、伝説の冒険。「全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路」  

全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路
松本 修



全国各地津々浦々、今日もアホ、バカ、それを意味する様々な言葉が使われている。
香川土着民の僕はアホもバカも使うが、ホッコという言葉も理解・使用語彙の範疇だ。
これらの言葉はあまりに日常的過ぎるが、今から遡ること20年以上前、
「探偵!ナイトスクープ」http://www.asahi.co.jp/knight-scoop/という番組に、ある依頼が寄せられた。
「大阪生まれの自分はアホと言い、東京生まれの妻はバカという。この言葉の使い分けの境界はどこだろうか?」

「複雑に入り組んだ現代社会に鋭いメスを入れ、さまざまな謎や疑問を徹底的に究明する」事をモットーとする高尚な番組(やや嘘)は、早速北野誠探偵を派遣する。
紆余曲折の結果、「アホ」と「タワケ」の境界らしきエリアを見いだして取材は終わるが、
では、バカとタワケの境界は? そして、西日本は全てアホなのか? と、次々と疑問が呈される。
これを解明することが宿題となり、
同番組では、全国のアホ・バカを意味する方言の悉皆調査に発展していった。

本書はその最初の依頼から、まさにこの本書を刊行するまでの、
同番組の取り込みをドキュメンタリーとして綴りながら、得られた成果を誰にでも分かるように丁寧にまとめあげた一冊である。

全国のアホ・バカを意味する言葉の分布については、もはや本番組の成果が定説となった感があるが、
なんと20系統もの単語に分かれ、それが京都を中心に同心円状に分布している。
これこそが柳田國男が提唱しつながらも、確証までは得られなかった「方言周圏論」の証拠である。
方言周圏論とは、京都のような文化的中心地から言語(単語だけでなく発音も)が周囲に拡がる一方、
次々と文化的中心地で新しい言葉が誕生した結果、同心円状に単語が分布するという見解だ。
この場合、遠い方がより古い言葉、中心ほど新しい言葉となる。
柳田國男は「蝸牛考」において「カタツムリ」という名詞からこの論を提唱したが、それ以外に新しい傍証が得られていなかった。

だがこの「探偵!ナイトスクープ」では、アホ・バカという言葉が、
明確に「方言周圏論」で説明できることを証明したのだ。
さらに本書では、他にもリコウという意味の言葉、かわいそうという意味の言葉など、
人々の生活に密着した数々の言葉が、アホ・バカと同様、「方言周圏論」で理解できることも示している。

当時は一地方番組でありながら、
日本の言葉、しかも時に蔑まれる「方言」について、その歴史的出自を明らかにしたという、
稀有のプロジェクトとなったのである。

全国の言葉が収録されているので、必ず貴方が慣れ親しんだ言葉も載っている。
それがどの程度の広がりがあるのか。そして、遠く離れたどの地域に、同様の言葉を用いる人々がいるのか。
現在は文庫にもなっている(「全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路 (新潮文庫)」未読。もしかしたら新しい知見が入っているかもしれない。)ので、ぜひ一人でも多くの方にお読みいただきたい。

なお、本書を読みながら思い出したことが二つ。
大学時代、国語の教官の部屋に本書が在った。
「これ面白いよ」とお薦めいただいのに、当時は堀辰雄で頭が一杯で読めなかった。
(堀辰雄に出会っていなかったら国語学がやりたかったのではあるが。)
20年以上経って宿題を果たしたことになる。
S先生、申し訳ありませんでした。

もう一つ。何かは忘れたのだが、「たがみよしひさ」のコミックのどこかに、
主人公が誰かを「コケ!」と罵倒するセリフがあった。
当時は「バカコケ」の「コケ」を意識的に短縮して使っているのかなと思っていのだか、
本書によると信州は「コケ」使用圏であった。
すなわち、僕が「ホッコ」と言うのと同じレベルの日常的言葉として「コケ」というセリフを用いたのだろう。
もう一度そのシーンを見つけたいところだが、難しいなあ。

【目次】
「フリムン」は琉球の愛の言葉
「ホンジナシ」は、本地忘れず
「アヤカリ」たいほどの果報者
「ハンカクサイ」は船に乗った
言葉遊びの玉手箱
分布図が語る「話し言葉」の変遷史
「バカ」は「バカ」のみにて「バカ」にあらず
新村出と柳田国男の「ヲコ」語源論争
周圏分布の成立
学会で発表する
「アホンダラ」と近世上方
江戸っ子の「バカ」と「ベラボウ」
「アホウ」と「バカ」の一騎打ち
君見ずや「バカ」の宅
「アハウ」の謎
「阿呆」と「馬家」の来た道
方言と民俗の行方

▼文庫はこちら。

category: 語学

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「死者」とは、如何なる存在か。「身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫)」  

身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫)
養老 孟司



死者を弔う墓。
多くの人が石造の立方体を積み重ねた形式を思い浮かべると思うが、
日本でも有名な沖縄の亀甲墓や、地域によっては死体を埋葬する墓と拝む墓が別の両墓制などがあり、
地域によって様々な形態・墓制がある。

ヨーロッパ圏ともなれば、さらに異なる。
ハプスブルク家では、心臓だけをハンガリーに、残りの遺体はウィーンに埋葬する。
またユダヤ人墓地では、既存の墓を残すこと(名前を残すこと)が重要となる。
そして映画でもよく見るが、西欧圏の多くでは、墓は極めて個人的なものとして建立される。

そのような行為は、どのような思想が背景にあるのか。

一人一人の知・経験は、完全に同一のものはない。
同じ風景を見ていても、それぞれの人の視点は、それぞれ別の物語を見いだしていく。

本書は、解剖学者として生と死の関係に強い関心を抱く養老氏が、
東欧圏の墓を巡りながら、その文化的・地質的背景について思索を拡げるものだ。

明確かつ客観的な論理展開があるわけでもなく、
万人が納得できる結論が導き出されるわけでもない。

いわば、「投げっ放し」の本である。

結論を求める層にとっては消化不足に感じるかもしれないが、
おそらく本書は、そのような読み方をすべきではない。

本書は旅の記録である。
読者は養老氏と共に旅し、養老氏の独言を隣で聴いているのだ。
その独言をふまえて、読者自身でも様々に考えていく、本書の味わい方だろう。

共同体にとっての、死者の在り方。
生きている人々と断絶した存在とするのか、連続したものとみなすのか。

また、その社会にとって、死者を忘却することが是なのか、
永遠に記録することが是なのか。

生きている者の共同社会に対して、死者はいかなる存在なのか。
そうした死者観が墓制に反映されているという養老氏の指摘を知るだけでも、本書を読む価値がある。


【目次】
第1章 ハプスブルク家の心臓埋葬―ヨーロッパの長い歴史は、無数の死者と共にある
第2章 心臓信仰―日本人には見えない、ヨーロッパの古層
第3章 ヨーロッパの骸骨―チェコ、4万体の人骨で装飾された納骨堂
第4章 内なるユダヤ人―埋葬儀礼はヒト特有のもの
第5章 ウィーンと治療ニヒリズム―脳化社会と身体の喪失、その問題の萌芽を探す
第6章 自己と社会と―身体と表裏一体に存在する、意識と脳についての考察
第7章 墓場めぐり―死を受け入れた身体の扱われ方に表象する死生観
第8章 お墓が中心―名もない死体が目の前に流れ着いたとき、あなたは

category: エッセイ

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鋼鉄ジーグ、寝不足で買い漁った本  

〈2017/7/1-7/2〉鋼鉄ジーグ、寝不足で買い漁った本

鋼鉄ジーグ。1975年放送開始で、たぶん最初に見たアニメの一つ。
玩具も持っていたので、好きだったのだと思う。
これが1979年イタリアでも放送され、イタリアでは大人気となったという。
その感覚を踏まえて創られたイタリア映画が、
「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」だ。

「テロの脅威に晒される現代のローマ郊外。裏街道を歩く孤独なチンピラ エンツォはふとしたきっかけで超人的なパワーを得てしまう。始めは私利私欲のためにその力を使っていたエンツォだったが、世話になっていた“オヤジ”を闇取引の最中に殺され、遺された娘アレッシアの面倒を見る羽目になったことから、彼女を守るために正義に目覚めていくことになる。」
(オフィシャルHPより。)
MARVELの大作ヒーローものもいいけれど、イタリアのスーパーヒーローものってない。
エンディングでは、主演のClaudio Santamaria(クラウディオ・サンタマリア)が、
鋼鉄ジーグのテーマをバラードっぽく歌っている。これがまた渋い。

2017年夏から日本でも公開とのことだが、見たいなあ。

さて、6月後半から子犬が愚図り、頻繁に深夜・早朝に起きて散歩している。
(ホントは放置しておきたいが、近所迷惑でもあるので。)
2時とか4時に散歩って、何やねん。
そのため、気分転換に先週は新書と文庫を買い漁った。レビューは先になるので、とりあえず紹介しておきたい。

▼「ミケランジェロの暗号―システィーナ礼拝堂に隠された禁断のメッセージ 」を先日読み、
ルネサンス期の巨匠の「謎」についてもっと知りたくなった。カラー図版多数で楽しい。


▼著者の一人は「ビブリア古書堂の事件手帖」の著者。
もう一人も僕は未読だが、「R.O.D 」の著者で本読み人。なので、古書マニアとしての対談が面白い。


▼深海ものは結構読んだ筈なのだが、漏れていた。



▼生物のサイズについては、は「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)」という良書がある。
一方、本書はカタチそのものについての本、らしい。
こういう、目の前の生物に秘められた共通の謎を解き明かす本って、いい。


▼なにしろ、「昆布と日本人 (日経プレミアシリーズ)」 (レビューはこちら )が面白かった。
そこで、日本の食材に関する本もターゲットに。牡蠣っておいしいよね。


▼「時間とは何か」という謎も興味深いが(そいうや「時間の科学 (NEW SCIENCE AGE) 」が読みかけだ)、
共通尺度としての「1秒」は、どのようにして決定されるのか。
そして、その精度と世界はどう関わるのか、という本みたい。楽しみ。



▼ウミウシを家族に見せたいんだけど、僕が若い頃見ていた磯は、いつも空振り。
先日ついに「今年はウミウシを見るという名の磯遊びにはいかないの」と言われた。
この本はシュノーケルで出会った生物に関するエッセイみたい。合間に挟まるイラストが可愛いんだ。


▼タロとジロの物語については、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長でもあった西堀栄三郎の「南極越冬記 (岩波新書 青版)」(レビューはこちら)でも、
当時者の証言が残されている。こちらは、隊としての立場だろう。
一方、本書著者は南極第一次越冬隊の犬係であり、第三次越冬隊でタロジロと再会を果たした人である。
立場が違うので、たぶん認識も違うんだろうけれど、それも含めて読みたい。こんな本あったんだなと驚き。



▼1963年に発生した「吉展ちゃん事件」。
身代金目的で日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、当時「戦後最大の誘拐事件」と呼ばれ、
発生から2年以上解決し、この事件によって逆探知が認められ、
また刑法の営利誘拐に「身代金目的略取」という条項が追加されるなど、
日本の誘拐事件の一つのターニングポイントとなった事件である。
この事件の存在は知っていたけれど、実態については気になりながら知らなかった。
思いがけずその記録である本書に遭遇。



▼イタリア、行きたいなあ。

category: 雑記:日々のこと

thread: 読んだ本の紹介

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素晴らしき読書指南になる筈、だが。「多読術 (ちくまプリマー新書)」  

多読術 (ちくまプリマー新書)
松岡 正剛



「読書」と言っても、そこには様々なスタイルが在る。
読む対象は何か。
 現代の小説、日本古典、西洋文学、コミック、ノンフィクション、専門書、啓蒙書。
何が目的なのか。
 楽しみか、新しい世界を知りたいのか、知識・技術の習得か。
どのような方法で読むのか。
 一言一句の典拠を確認しながら読むのか、流して読むのか。
何度読むのか。
 基本的に一回だけなのか、何度も繰り返し読むのか。

同じ人でも、対象・目的・方法・回数等が一つに限られるというのは、恐らくないだろう。
(ただし、「全く読まない」という選択肢は在る。)

また言うまでもないが、本と、その読み方のスタイルに優劣などない。
どんなに高尚(と言われる)文学作品でも、何の感動も与えない場合もあるし、
一冊のコミックが、大きな感動と人生の指針を与えることもある。

本と読者という、完結した一対一の関係の中で成立する「読書」は、絶対的に個人的な営みだ。
その中で、他人が「どう読んでいるか」なんて、本来どうでも良い。

ただし、「様々な本を多くを読むこと」で見えてくる世界と言うのは、確かにある。
読めば読むほど、自分が認識していた世界が変質し、拡張していく驚きは、
僕も多くの方に体験してほしいと思っている。

本書はそうした多読派として、「千夜千冊」というプロジェクトでも有名な松岡正剛氏が、自身の読書術を語るもの。
タイトルは「多読術」だが、本質は「いかに多く読むか」ではなく、
「一冊の本をいかに読み、かつ、どのようにして多くの本を関連付けていくか」という点にある。
松岡正剛流読書術指南、と言って良い。
目次を読めとか、マーキングすべきなど、様々な本でも指摘されているテクニックも多い一方、
複数の本から年表を作成したり、引用ノートを作成するなど、
多くの本を関連付けたい人にとっては参考になるテクニックも含まれている。
(年表は僕も作ろうとしたが、いつしか断念していた。反省。)

ただし、残念ながら多数の本を読んでいる人ほど、
恐らく本書が雑に創られているのではないかという印象を受けるのではと危惧する。
本書はインタビュアーの問いに正剛氏が回答するというスタンスだが、
その問は別に無くても良い程度のもの。
むしろ正剛氏に迎合するスタンスも感じられ、どうにも内輪話の感が強い。

本書は、「ちくまプリマ―新書」という若い層を対象とするシリーズ。
その中で読書を進める本であれば、本来、そのシリーズの根幹に関わる非常に重要な一冊の筈だ。
それがこのような作りでは、むしろ逆効果ではないのか。

松岡氏が丁寧に書く時間がなかったのか、
編集者が「インタビューで良いから」と企画を持ちかけたのかは分からないが、
もっと良い本に成り得た筈だけに、非常に残念である。


【目次】
第一章 多読・少読・広読・狭読
 本棚拝見
 本は二度読む
 たまには違ったものを食べてみる
 生い立ちを振り返 る
第二章 多様性を育てていく
 母からのプレゼント
 親友に薦められた『カラマーゾフの兄弟』
 文系も理系もこだわらない
第三章 読書の方法を探る
 雑誌が読めれば本は読める
 三割五分の打率で上々
 活字中毒になってみる
 目次をしっかり読む
 本と混ってみる
 本にどんどん書き込む
 著者のタイプを見極める
第四章 読書することは編集すること
 著者と読者の距離
 編集工学をやさしく説明する
 ワイワイ、ガヤガヤの情報編集
 言葉と文字とカラダの連動
 マッピングで本を整理する
 本棚から見える本の連関
第五章 自分に合った読書スタイル
 お風呂で読む・寝転んで読む
 自分の「好み」を大切にする
第六章 キーブックを選ぶ
 読書に危険はつきもの
 人に本を薦めてもらう
 本を買うこと
 キーブックとは何か
 読書しつづけるコツ
 本に攫われたい
第七章 読書の未来
 鳥の目と足の目
 情報検索
 デジタルvs読書
 読書を仲間と分ち合う
 読書は傷つきやすいもの
あとがき

category: 読書

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生々しい祈り、そのままに。「ミステリーな仏像」  

ミステリーな仏像
本田不二雄



「仏像」に対するイメージは様々だが、それぞれの姿を自由を描けるわけではない。
各仏―如来、菩薩、明王、天部や羅漢などに至るまで、
大系化された仏教世界においてその位置づけが定まっているように、
その形も定まっている。
だからこそ、その形からその仏像が「何か」を知ることができる。

ところが一方、人々の祈りは様々だ。
その祈りの受け皿となるべき「仏像」が在れば良いが、
それが合致しない時、人は新しい仏像を創りだすことがある。

そうした荒々しく、かつ生々しい祈りがイメージ化されたとき、
従来の仏とは異なる姿が現れる。
それを、無関係な第三者が容易に理解できるとは思えない。

本書おさめられているのは、そうした生々しい祈りの姿だ。


さて、本書を読む決め手は、
香川県観音寺市にある「大野原の生木地蔵」が収録されていたことだった。
もう何十年も前になるが、県内の保存木を巡った時期があり、
その中でこの仏像に出会った。
(観音寺市観光協会のHPで見ることができる。)

小高い丘の上、数々の墓石がある中に聳える、一本のクスノキ。
その一面は建物で囲われている。
そしてこのクスノキ、まだ生きているクスノキを抉り、
中に地蔵菩薩が掘り出されているのだ。

生きている木から仏像を掘り出す。
どれほどの想いが在れば、それほどの行為ができるのかと、
恐ろしくも感じたほどだ。

その由来も本書に記載されていた。
天保7年(1837)、病弱の娘の病気平癒を祈願し、四国八十八箇所を巡った森安利左衛門。
彼が伊予で見た生木地蔵を、娘のために故郷で刻んだという。
その結果、娘のナオは100歳まで生き、大正8年11月26日に亡くなったという。
その御利益が、この生木地蔵を今日まで遺している。

本書には、様々な「ミステリーな仏像」が紹介されている。

法然寺(香川県高松市)にある、法然上人像。
胸がカラクリ仕掛けのように開き、
中にもうひとつの合掌像が現れる。

また、仏像と言えば正面を見据えているものだが、
萬日堂(群馬県高崎市)の阿弥陀如来立像は左下を見ている。

さらに、ガリガリの姿の「黒ぼとけ」(応仁寺(愛知県碧南市))。

まるで人体模型のように、
仏像の内部に骨格・臓器を象った像が納められている栄国寺(愛知県名古屋市)の阿弥陀如来坐像。

いかなる祈りが、そのような姿を求めたのだろうか。
本書を紐解きつつ、もしお近くに在るのならば、ぜひその姿を拝んではいかがだろうか。

【目次】
【第一章】仏像が秘めていたもの
1 隠されていた裸形像
2 格納された秘仏
3 骨格・臓器をそなえた仏像
4 「八手観音」とその胎内仏

【第二章】ありえない仏像
5 ついに立ち上がったホトケ
6 振り返る仏像たち
7 膨張をつづける頭髪と童顔
8 知られざる「やせ仏」
9 何ごとかを告げる阿弥陀仏

【第三章】霊木からの化現
10 立木からあらわれたホトケ[一]
11 立木からあらわれたホトケ[二]
12 母なる円空仏
13 木とともに生き続ける地蔵尊
14 永遠に開眼しない観音像
15 無眼と閉眼の思想

【第四章】奇仏をめぐる旅
16 オールマイティな地蔵尊
17 東京の変わり地蔵めぐり
18 びんずるさんが愛される理由
19 ミステリーな東京仏
20 「家康大黒天」をめぐる謎
21 化け猫騒動と秘仏

【第五章】女神像の秘奥
22 ブッダを産む聖母
23 子守をする荒神
24 地母神か山姥か奪衣婆か
25 人髪が植えられた鬼子母神
26 異界の女神・八百比丘尼
27 怨霊になった小野小町

【第六章】神々を発見する
28 御神体の神像あらわる
29 鬼神の肖像
30 ビリケンさんの神々習合
出版社からのコメント

category: 歴史

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夢を追え!! 「バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)」  

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)
前野ウルド浩太郎



研究者は論文を出してナンボという世界である。
それは八百屋が野菜を売ってナンボ、という程に当たり前の話である。

だが、研究は八百屋とは違う。
極めて高い専門性ゆえに、門外漢には何が目的で、何が課題なのかを想像することすらできない。
だからこそ、まずは「何がワクワクして研究しているのか」が知りたいのだ。

ところが昨今、特に生物研究者が元気である。
ダイオウイカを初めとして深海生物。日本の恐竜。昆虫。鳥類。
本ブログでも紹介した本も多いし、いわゆるベストセラー的売り上げを記録しているものすら、ある。

以前より、研究者が恵まれているのか?
以前より、劇的に研究が進んだのか?

様々な要因があるだろうが、根本的なことがある。
それはおそらく、「これ(研究、研究対象)が好きだ」という素直なメッセージを、社会が求めているからだろう。

端的に言えば、「夢を追う姿」だ。

現実社会は、閉塞感に溢れている。就職も厳しい。
独身、結婚、子育て、介護、いかなる選択肢をとっても、昔のような「平穏な日々」は期待しがたい。
誰もが、夢を追うことを恐れている。

その中で、研究者は夢を追うことに人生を賭けた人々だ。
だからこそ、その活動を知ることが、自分たちの人生の支えとなる。

もちろん研究対象の面白さもあるが、どうも多くの読者は、こうした夢を託す物語を欲しているのではないかと、思う。

その意味で、本書は突き抜けた一冊である。

著者はバッタ好き。バッタ好きが嵩じてバッタアレルギーになるなんて、
研究者として死活問題ではないかと思うが、それほどバッタ好きである。

そして、そのバッタを研究することに、人生を賭けている。

きっかけは、ファーブルだという。
子どもの頃に読んだファーブルの伝記。その姿に憧れ、自身も昆虫学者になるのだという決意。

これこそ、「夢」だろう。

だが日本の現実は、諸外国に比しても特に研究者に厳しい。

博士号を取っても、もちろんすぐに就職口は無い。
論文実績がなければエントリーすらできないが、論文を書くデータを得るには、研究が必要だ。
だが、研究できる環境が無い、という負のスパイラル。

この中で、著者は2年間の任期で380万円(生活費+研究費)の支援が得られる制度(これも倍率20倍)を利用し、
研究対象であるサバクトビバッタの本場、
モーリタニアの国立サバクトビバッタ研究所へ、単身飛び込んだ。
それが31歳の時である。

日本人すら稀なモーリタニア。
言葉も通じない国で、とにかくサバクトビバッタのフィールドワークに駆ける日々。

だが、数多の苦難が(本当に神様もイジワルと思うくらいの苦難が)著者を襲う。

そうした日々を、著者がどう生き抜いてきたのか。
サバクトビバッタの研究という本職における論文もさることながら、
なぜ本書「バッタを倒しにアフリカへ」という新書を出すに至ったのか。
そして、そもそもなぜ著者の名前は「ウルド」が入っているのか。

こうし疑問は、本書を読み進めることで笑いと涙(これは大袈裟だが)の中で、
納得していただけると思う。

本書は、決してエキセントリックな売名本ではない。
ファーブルに憧れた少年が、昆虫学者を夢見て、
そして実際にその道の途上で邁進する物語である。

緑の全身タイツに身を包み、神々しく見えるほどの男の生き様、
ぜひ本書で味わってほしい。

なお、著者のブログはこちら(「砂漠のリアルムシキング」)である。

また、フィールドワークの詳細については、「孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)」も刊行されている。
この本も読みたいと思っているんだけど、後回しになっちゃった。


category: 昆虫

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