ちょっとヨクナレ ~読書と日記~
自然科学、歴史、ノンフィクション等の読書記録
アルピニストが、いつまでも山を愛せるために。「穂高に死す」 
2017/06/01 Thu. 12:44 [edit]
穂高に死す (ヤマケイ文庫)
安川 茂雄
「山と渓谷」2016年11月号に、「穂高岳は21世紀の「魔の山」なのか」というコラム(森山憲一、YAMA-KEI JOURNAL HEAD NEWS)が掲載された。
本記事によると、穂高岳山荘の宮田八郎氏の話として、穂高岳では2015年まで2年連続で20人以上の遭難死者が出ており、2016年もそのペースに変化は無いという。
なぜこの事実が注目されないか。実は遭難統計は各県ごとに計上されるため、長野と岐阜の県境にある穂高岳については、総体が見えにくくなっているのではないかとも指摘している。
谷川岳は死亡者の累計が800人を超え、「世界一遭難数の多い山」等と言われるが、その死者数は近年では年に数件程度。
それと比較すれば、現在進行形で遭難死者数が累積している穂高岳こそ、事実上の「魔の山」(として注意を払うべき)ではないか、というものだ。
僕自身、中学生の修学旅行で上高地を訪れ、そこから望む穂高岳には心を動かされた。
「いつかは登りたい」と思わせる何かが、そこには在る。
実際には、後に自分が高所恐怖症であると分かったため、登山は諦めた。稜線歩きなど無理だからだ。
だからこそと言うべきか、今も「穂高」という名前には、特別な憧れがある。
そう考えられると、一定量の山に登る意思と経験がある方の多くが、
穂高を訪れることに何ら違和感はない。
だがその憧れが、遭難に繋がるとすれば、これほど悲しい事はない。
本書は、1965年(昭和40年)7月刊行の、「穂高に死す」の文庫版だ。
本ブログでも多く紹介している近年の遭難事例集とは異なり、
かなり昔、すなわち日本で「アルピニズム」という言葉が生きていた時代の話だ。
第1章、明治38年(1905年)の乗鞍岳、最初の「登山事故」と目される事例から始まり、
井上靖が「氷壁」でも描いたナイロンザイル事件を経て、
昭和34年(1959年)の穂高滝谷での遭難までの11章から構成されている。
現在とは比較にならない装備であり、テクニックだろう。
また登山黎明期だからこその挑戦や、
黎明期の優れた登山家だからこその過信等による遭難などもあり、
直接的に今後の遭難事故対策に資するというものではない。
だが、こうした先人たちによる開拓や経験が積みあがった結果、
多くの知見が蓄積され、また装備や技術も進展し、
現在の「誰でも楽しめる」登山の大衆化に至った。
そして、多くの人々が、憧れの穂高を目指すことができている。
だが、 その幸福を、遭難死という結果で終わらせては、いけない。
「誰でも楽しめる」という意味は、何ら準備しなくても大丈夫ということではない。
かつてのように山に人生を捧げるような生き方をせずとも、
「適切な知識、経験、判断力と装備等が備わっていれば」誰でも楽しめる、ということだ。
本書を初めとした山岳遭難事故関連の本は、いわば山に向かう自らを客観視するためのツール。
これらの本を記した著者や、出版者の想いが、届くべき人に届くことを願う。
【目次】
乗鞍山上の氷雨
北尾根に死す
アルプスの暗い夏
雪山に逝ける人びと
大いなる墓標
微笑むデスマスク
“松高"山岳部の栄光と悲劇
ある山岳画家の生涯
一登山家の遺書
「ナイロン・ザイル事件」前後
滝谷への挽歌
安川 茂雄
「山と渓谷」2016年11月号に、「穂高岳は21世紀の「魔の山」なのか」というコラム(森山憲一、YAMA-KEI JOURNAL HEAD NEWS)が掲載された。
本記事によると、穂高岳山荘の宮田八郎氏の話として、穂高岳では2015年まで2年連続で20人以上の遭難死者が出ており、2016年もそのペースに変化は無いという。
なぜこの事実が注目されないか。実は遭難統計は各県ごとに計上されるため、長野と岐阜の県境にある穂高岳については、総体が見えにくくなっているのではないかとも指摘している。
谷川岳は死亡者の累計が800人を超え、「世界一遭難数の多い山」等と言われるが、その死者数は近年では年に数件程度。
それと比較すれば、現在進行形で遭難死者数が累積している穂高岳こそ、事実上の「魔の山」(として注意を払うべき)ではないか、というものだ。
僕自身、中学生の修学旅行で上高地を訪れ、そこから望む穂高岳には心を動かされた。
「いつかは登りたい」と思わせる何かが、そこには在る。
実際には、後に自分が高所恐怖症であると分かったため、登山は諦めた。稜線歩きなど無理だからだ。
だからこそと言うべきか、今も「穂高」という名前には、特別な憧れがある。
そう考えられると、一定量の山に登る意思と経験がある方の多くが、
穂高を訪れることに何ら違和感はない。
だがその憧れが、遭難に繋がるとすれば、これほど悲しい事はない。
本書は、1965年(昭和40年)7月刊行の、「穂高に死す」の文庫版だ。
本ブログでも多く紹介している近年の遭難事例集とは異なり、
かなり昔、すなわち日本で「アルピニズム」という言葉が生きていた時代の話だ。
第1章、明治38年(1905年)の乗鞍岳、最初の「登山事故」と目される事例から始まり、
井上靖が「氷壁」でも描いたナイロンザイル事件を経て、
昭和34年(1959年)の穂高滝谷での遭難までの11章から構成されている。
現在とは比較にならない装備であり、テクニックだろう。
また登山黎明期だからこその挑戦や、
黎明期の優れた登山家だからこその過信等による遭難などもあり、
直接的に今後の遭難事故対策に資するというものではない。
だが、こうした先人たちによる開拓や経験が積みあがった結果、
多くの知見が蓄積され、また装備や技術も進展し、
現在の「誰でも楽しめる」登山の大衆化に至った。
そして、多くの人々が、憧れの穂高を目指すことができている。
だが、 その幸福を、遭難死という結果で終わらせては、いけない。
「誰でも楽しめる」という意味は、何ら準備しなくても大丈夫ということではない。
かつてのように山に人生を捧げるような生き方をせずとも、
「適切な知識、経験、判断力と装備等が備わっていれば」誰でも楽しめる、ということだ。
本書を初めとした山岳遭難事故関連の本は、いわば山に向かう自らを客観視するためのツール。
これらの本を記した著者や、出版者の想いが、届くべき人に届くことを願う。
【目次】
乗鞍山上の氷雨
北尾根に死す
アルプスの暗い夏
雪山に逝ける人びと
大いなる墓標
微笑むデスマスク
“松高"山岳部の栄光と悲劇
ある山岳画家の生涯
一登山家の遺書
「ナイロン・ザイル事件」前後
滝谷への挽歌

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