ちょっとヨクナレ ~読書と日記~

自然科学、歴史、ノンフィクション等の読書記録

21世紀の生物研究は、バイオロギングが切り開く。「野生動物は何を見ているのか―バイオロギング奮闘記 (キヤノン財団ライブラリー)」  

野生動物は何を見ているのか―バイオロギング奮闘記 (キヤノン財団ライブラリー)
佐藤 克文,青木 かがり,中村 乙水,渡辺 伸一



動物の移動・渡りは、大きな謎である。
それを解明するため、鳥類・魚類等では標識調査という手法が広まっている。
だが、標識調査は再捕獲を受動的に期待するものであり、装着した全個体の移動データがそのまま取得できるものではない。

そこで、ある程度の小型発信機を装着し、その電波を受信することで位置を特定するという手法が発展した。
大形動物(鳥類であればハクチョウ類やワシタカ類)では、GPSと人工衛星を用いた調査が行われており、
2012年にはハチクマ調査プロジェクト(http://hachi.sfc.keio.ac.jp/)で、リアルタイムの位置情報の共有までできた。
また、狭い範囲であれば、ラジオテレメトリーでの調査も可能である。

一方、携帯電話の発展に伴い、各種センサーとメモリの高性能化・小型化が進んだ。
カメラ、加速度センサーや明度センサー等は、今や誰もが知らないうちに活用している。

これを凝縮し、野生動物に装着して何とか回収すれば、装着中の行動データが入手できるのではないか。

こうした、現在の日進月歩の技術発展を背景に、
おそらく21世紀の動物調査の主流に成り得る調査方法が、バイオロギングである。

これまで本ブログでも、関連本をいくつか紹介してきた。
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いずれも劣らぬ楽しい本で、どこから読んでも新しい発見に満ちている。

だがしかし、前述のようにバイオロギングは日々進化しており、
対象動物も、そこから得た知見もどんどん蓄積・拡大を続けている。

本書はキャノン財団の支援を受けて実施した、様々なバイオロギング調査について、
その概要、成果、そして個々の研究者の苦労話等を紹介するもの。

先行書で記載されている話題もあるが、
よりコンパクトに整理されているし、もちろん、更に新しい話題も多い。
しかも本書では、ウミガメ、マンボウ、クジラ、オオミズナギドリ、チーターと、
様々な分類群・生活空間の動物を取り上げていることが大きな特徴だ。
おかげで、バイオロギングという手法が、単に海洋生物にしか用いることができないとか、
加速度しか記録できない等の誤解を避けることができる。

さらに、個々の研究者の苦労話-そして楽しい話は、
これから生物研究を目指したいと考える人々の良き指針となるだろう。

また、メディアミックスとして、本書収録テーマに関しては、
その成果である様々な映像がネット上で公開されている。
「野生動物は何を見ているのか」(YOUTUBE上のチャンネル)

例えば「オオミズナギドリがカタクチイワシを捕らえる瞬間」。

絶対に見るのが不可能だと思っていたアングルだ。

「カニを追いかけて食べるアカウミガメ」。

頑張れカメ、頑張れカニと手に汗握る攻防。

また、「ラスチックゴミを食べるアオウミガメ」。

環境保全でよく話題となるが、それを目の当たりにすると、つらい。
ただ本書で触れられているが、他の調査で、プラスチックゴミを喰うものの、
それが直接的に減少原因になっているわけではない、という。
(有害物質を吸収する可能性はもちろんあるが、ほとんど排泄されてしまう。)
むしろ、ゴミが減少原因と誤解することで、
真の減少原因を見過ごしかねないと指摘している。

さらに、深海で「クダクラゲ類を食べるマンボウ」。

クダクラゲという生物も知らなかったが、まして、それがマンボウにとって重要な餌となっているとは。

これらはほんの一端に過ぎず、
「見えないもの」を可視化するバイオロギングは、今後も大きな成果をもたらすことだろう。

本書を始め、継続して追いかけていきたい。

【目次】
1章 動物目線の理由
2章 浦島太郎の目線で調べるウミガメの生態
3章 冷たい深海でクラゲを食べるマンボウ
4章 樹に登らなくても飛べるオオミズナギドリ
5章 マッコウクジラの頭を狙え
6章 ブッシュに潜むチーターの狩り
7章 バイオロギングの未来

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category: 動物

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絶望的な逃避行と、苛烈な尋問。「ブラヴォー・ツー・ゼロ―SAS兵士が語る湾岸戦争の壮絶な記録」  

ブラヴォー・ツー・ゼロ―SAS兵士が語る湾岸戦争の壮絶な記録 (ハヤカワ文庫NF)
アンディ マクナブ



アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)」(レビューはこちら )とか、映画「ローン・サバイバー 」 (原作は「アフガン、たった一人の生還 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)」)を見ていると、折に触れ目についたのが本書。

1991年1月17日に始まった湾岸戦争の最初期の1月22日に、スカッド・ミサイルの発射機等を破壊するため、8人のSASがイラクに潜入。ところが現地には、事前情報を超える部隊が展開しており、8人は早期に作戦中止を余儀なくされる。
撤退先としたシリアは300km先。隠れるものもない砂漠、高地では30年ぶりの寒波による降雪、そして徹底した追跡。
8人はいつしか散り散りとなり、ついには捕虜となってしまう。

確保したのは、フセインによる独裁がピークに達していた時期であり、国家全体がまだ独裁国家の体を成していた時期だ。

捕虜となった著者らに昼夜を問わず続けられる容赦ない追及、罵倒、殴打。
本書では、戦時下という言葉だけでは説明できない、人間の残虐性が曝けだされている。

本書で描かれているのは、ほぼ潜入した1月22日から、解放された3月5日までの6週間にすぎない。

だが、その濃密な時間は、余すことなく記されている。
前半の潜入時。作戦検討、準備、ヘリでの潜入、そして潜入地点までの行軍は、まさに1分1分が緊張の連続だ。
文章のテンポと行動のテンポ、時間の進行が絶妙に噛み合い、
あっという間に読み進む。

発見された後の逃避行は、周囲は全て敵という状況下。
通信は途絶して助けも呼べず、荒野を300km先のシリアへ向かう。
だが、決して絶望下ではなく、彼らはまだ自信に満ち溢れている。

だが時間が経つにつれ、悪天候による気温低下が低体温症を招き、
またどちらへ進んでも敵軍と遭遇。
交戦の混乱、孤独、そして投降。

後半、捕虜となってからは、容赦ない暴行が続く。
読むのが耐えられない人もいるかと思うほどだが、
これが現実にあったことだと思い出せば、さらに背筋が寒くなる。
いつ暴行が加えられるか。次は何が待っているのか。前半とは異なる緊張が続く。

もちろん彼らが解放されたからこそ、この本書があるわけだが、
救いの見えない状況は、本当に恐ろしいものだ。

湾岸戦争は、リアルタイムでテレビで放送されるという、新しい時代の戦争だった。
しかも、映し出されるのは誘導による精密爆撃やトマホーク等、遠隔地からの攻撃が多く、
実際の兵士の戦いが報道されることは少なく(もちろん報道方針によるものだろう)、
リアルな戦争という感覚が少なかった。

だがその最中、こうした戦闘があり、悲劇と苦しみがあった(捕虜となった著者らもそうだが、
著者らに倒されたイラク兵士にも家族も人生もあったはずだ)ということは、
もっと広く知られるべきだろう。

もちろん本書は、SASという職業兵士の中でも選抜された者たちだから、
戦争や生死に関する視点は、あくまでも西側兵士のものだ。
それは、立場上どうしようもないものだから、それをもって本書を批判するのは的外れだろう。
(それは、「アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)」 も同じだ。)

また、SASという組織が現に存在する以上、
全ての出来事が余さず記録されているとか、記載された事項の全てが真実であるとかの幻想も抱くべきではない。
(強制の有無にかかわらず、当然ぼかされてる事項も多いだろう。)
だから、1点1点が事実と異なるからといって、本書の全てを否定するのもおかしい。
(それほどナイーブな人は、そもそもこうした当事者の本は読むべきではない。)

そうした事を踏まえて、やはり本書は1990年代以降の戦時下を記録した、
稀有の戦争ドキュメントとして価値がある。

それにしても、とにかく、
「山羊飼いほど恐ろしいものはない」というのが、
本書や「ローン・サバイバー 」から得た教訓である。
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category: 戦争

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サイエンスは、日常生活にこそ必要だ。「京都大学人気講義 サイエンスの発想法―化学と生物学が融合すればアイデアがどんどん湧いてくる」  

京都大学人気講義 サイエンスの発想法―化学と生物学が融合すればアイデアがどんどん湧いてくる
上杉 志成



「◯◯大学の◯◯講義」というスタンスの書籍が溢れている。
一般的に、ベストセラーに追従した柳の下本は、だんだんネタがマイナーとなったり、造りが雑になってきがちだ。
ただ、こうした「◯◯大学の◯◯講義」という類の場合、
まあ、それなりの質が保たれていると思う。

おそらくは、
そもそも、大学の講義という時点で知の集積-それも余り一般化されていなもの-があるはずだし、
書籍化しようというくらいだから、そこに何かしらの特殊性・話題性があるから、だろう。

ところで、本書の「サイエンス」は、一般的な「科学」に限定するものではない。
著者は、サイエンスを「生きる技術」、考え方、理解したことを人に伝え、説得する方法として定義している。

そうすると、「サイエンスの発想法」とは何だろうか。
「説得方法の発想法」では、どうも本書の趣旨に一致しない。

読んで見れば、本書は、化学と生物学の融合-具体的にはDNAを中心とした研究史をふまえながら、
研究課題や手法を独創的に発想する手法を講義していくもの。

だから、標題の「サイエンスの発想法」とは、
「サイエンス(するための)発想法」ではなく、
「サイエンス(を身につけた人間の)発想法」という意味ではないだろうか。

さて、本書ではその発想法のベースとして、SCAMPER法と呼ばれる
ブレーンストーミングの手法を踏まえている。

SCAMPER法とは、次のような考え方だ。
- Substitute 取り替える
- Combine 組み合わせる
- Adapt 適用する
- Modify,Magnify,Minify 変化させる・拡大する・縮小する
- Put to other uses 他に利用する
- Eliminate 除く
- Rearrange,Reverse 逆にする・順番を変える

具体的な展開方法はさておき、
本書の楽しいところは、遺伝子研究や遺伝子工学の分野における研究手法の発想が、
これらのテクニックで解説されているところ。

まだまだ身近とは言えない遺伝子工学が、
どのような発想を元に、分子レベルで展開されているかが紹介されている。
京都大学でも人数制限があるような講義であり、
これを自宅で読めることは、(実用性はともかくとして)嬉しい話である。

なお、本書のおかけで、うまみ成分に
鰹節のイノシン酸や干しシイタケのグアニル酸のような「核酸系うまみ物質」、
味の素のグルタミン酸のような「アミノ酸系うまみ物質」があること、
そしていずれも、DNAを合成するために核酸・アミノ酸を摂取するたるの「味」であることを知った。
また、市販の化学調味料の多くは、最も旨味が感じられる、
「核酸系うまみ物質」:「アミノ酸系うまみ物質」=97.5:2.5が主流と言う。
味の分野もまた、奥深いものである。

【目次】
第1講 「嫌いなもの」でアイデアをつかもう!
第2講 サイエンス力をつけよう!
第3講 遺伝子の構造を書く
第4講 遺伝子を作る
第5講 タンパク質を作る
第6講 いろいろな物質を作るアイデア
第7講 甘いものと脂肪とアイデア
第8講 癌とウイルスを抑えるアイデア
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category: 技術

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なぜ日本のアオサギは陰鬱なのか。日本文化に潜む謎に迫る「幻像のアオサギが飛ぶよ 日本人・西欧人と鷺」  

幻像のアオサギが飛ぶよ 日本人・西欧人と鷺
佐原 雄二



水辺でぼーっと佇むアオサギ。
アオサギ201502
何も考えていないようで、たぶんやっぱり何も考えていない筈だ。

(こんな喰えもしないサイズのエイと格闘することもある。)。
アオサギとエイ.jpg
僕は動物と喋れるならば、真っ先にアオサギと話をしてみたいと思っている。

さて、アオサギは近年、全国各地で普通に見られるが、かって水域の汚染が酷かった時期はかなり減少していたようだ。

例えば香川県では、次のように文献記録が変遷している。
1960年代 「本県に多い、ため池で見られる」(岡内,1968)
      (ただ、「三豊郡高瀬町に多い、又大川郡引田町附近にも相当数見かけられる。」(同書)と局地性はあったようだ。)
1970年代 「大型の池で見られるが,個体数は少ない。 」(1975,香川県環境保健部)、
1980年代 「その数はそんなに多くない。今まで見た例では、公渕池(高松市)で二五羽の群れが最大である。」(山本,1984)
現在からすると、想像できないくらいの少なさである。

そのアオサギについて、僕は昔から観察会で用いているネタがある。
(本書からのパクリと言われると困っちゃうので、例えば「野鳥案内人のノート(2) ゴイサギ」(香川の野鳥を守る会,「こげら通信」2009年2月号所収)でも書いていることを念のため記しておく)。

まず、同じサギ類に「ゴイサギ」というやつがいる。漢字では「五位鷺」。
なぜ「五位」かというと、平家物語に次のような命名由来譚がある(「延喜聖代」)。

醍醐天皇が神泉苑へ行幸した時、池の水際に鷺がいたので、六位の者に「あの鳥を捕まえてこい」と命じた。捕まえられるわけがない、と思いながらも、帝の命令なので歩み寄ると、鷺は羽づくろいして飛び立ちそうである。そこで「帝の命令だぞ」と言うと、平伏して飛ばなかった。これを捕まえてお見せすると、「命令に従って捕まえられたことはあっぱれである。五位の位を授ける」として、鷺を五位にした。今日より以後、鷺の中の王であるという札を天皇自ら記し、首に付けて放した。


ただ、ゴイサギは夜行性だが、この話は日中である。何だか違和感がありはしないか。

そして江戸時代(延宝五年(1677))の「諸国百物語」の「靍の林、うぐめの化け物の事」(江戸怪談集〈下〉 (岩波文庫)岩波文庫)では、妖怪姑獲鳥の正体として殺された「大きなる五位鷺」の挿絵にアオサギが描かれている(このアオサギ、とても痛そうな顔をしている)。
諸国百物語

また、尾形光琳もアオサギの絵に「五位鷺」と記している (光琳鳥類写生帖 (双書美術の泉 56)、岩崎美術社)。
光琳

これらのことから、少なくとも江戸時代以前、生物種としてのアオサギとゴイサギ、それに対する「アオサギ」と「ゴイサギ」という名前は混同があったのではないか、と考えた。
そうすると、前出の平家物語の話は日中の出来事なので、この話に限っては、実はアオサギという種についての話ではないか、と考えられる、というネタだ。

この推測を補強するためには、アオサギに関する古文献を色々見なきゃなと思っていたのだが、当然のことながら放置していた。

さて、本書である。
野鳥の特定種をテーマとした本は時折り刊行されるが、多くは絶滅が危惧される種(例えば「二万年の奇跡を生きた鳥 ライチョウ」(レビューはこちら))、または親しみやすいフクロウやスズメ(例えば「スズメの謎―身近な野鳥が減っている!?」(レビューはこちら)に関するものである。

よもや、アオサギなんていう極めてマイナーな種について一冊が成されるとは思いもかけなかった。

そしてその内容。
・日本と西洋におけるアオサギに対するイメージの差異、
・その根本原因として「穀霊」としてのサギ類から「妖怪」への変遷、
・鷺鉾を用いる滋賀県の「ケンケト祭」、そしてサギ類の「冠羽」の服飾品利用による乱獲史など、
幅広い分野に及ぶ力作である。

そして当然ながら、僕の上記の思いつきについても同様に注目されており、それどころか更に広範囲の文献が探索されている。
悔しいが、僕の着眼もあながち的外れでなかったと感じ、嬉しい限りである。
そこで当該ネタに関する部分を詳しく読んだ。

関連文献の一つとして、著者は「玉藻前物語」(1470年末の古写本)を紹介してくれている。

むかし、ゑんきの御かとの御事を、うけ給はるに、(中略)いけの、みきわに、あをさきの、いたりける□、六いをめして、かのさき、とりてまいれと、(中略)なんち、とりのなかのわうたるへしとて、五いになして、はなされにけり、それよりして、あをさきをは、五いと申とかや


なんと、こちらでははっきりと「あをさき(アオサギ)」を捕獲し、それを「五位鷺」と言うことになったと書いている!

著者は、生態面から「平家物語のゴイサギ」=ゴイサギ幼鳥説であるが(上記の玉藻前物語についても、「アオサギとゴイサギの混同の物語は何とも奥深いものだと言わねばなるまい。」とのみ記している)、僕はこの文献を踏まえて、やはり「平家物語のゴイサギ」= アオサギ説を取りたい。
どちらが正解かなんて分かる由もないが、面白いテーマである。

このように、身近なアオサギひとつにしても、これほど奥深く楽しめるのだと示してくれる本書。
野鳥好きでなくとも、お勧めである。
(特に僕としては、上記の「平家物語のゴイサギ」問題について取り上げていただいている点について、
著者の佐原氏に直接お礼が申し上げたい思いなのだが、残念ながらご連絡先がわからない。本ブログが誰かを解して伝わることを願う。)

なお、著者が滋賀県の「ケンケト祭」を知る契機となった本、
稲と鳥と太陽の道―日本文化の原点を追う」は、かなり昔の刊行ながら、
日本における稲作と鳥信仰の関係について極めて興味深い数々の事例紹介と考察がなされている。
(例えば、墓地の竿を立て、その上に鳥の模型を立てる習慣が、鳥取県や鹿児島県長島、長崎県島原半島、大分県海岸部、宇和島、対馬などにあること等も紹介されている。対馬では木製のツバメが立てられるという。ツバメは速く飛ぶため、あの世へも速くつれて行ってくれるだろうという考えからではないかとのことだが、日本人とツバメの関わりという点でも興味深い。)

【目次】
第1部 分裂するアオサギ像―日本と西欧
第2部 妖怪アオサギ―日本人にとってのサギ
第3部 羽根飾り問題とサギたち


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category: 野鳥

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消えてからでは遅い。「干潟生物観察図鑑」今、調べよう!!  

干潟生物観察図鑑: 干潟に潜む生き物の生態と見つけ方がわかる
風呂田 利夫,多留 聖典,中村 武弘



今春、香川県坂出市の綾川河口へ潮干狩りへ行った。
数年前に行ったときは殆ど採れなかったのだが、例年、同地は大変な人出になるため、捕り尽されるのかと考えた。
そこで今年は3月上旬に行ったのだが…、やっぱり恐ろしいくらい採れなかった。
数時間、大人3人と子ども1人で、人差し指の先くらいのアサリが15個程度、あとはクチバガイが15個程度。
子どもの頃はバケツに一杯、20年前でもバケツ半分くらいは採れていたのだが、干潟の生産力が全く無い感じだ。
そういえば、以前は河岸にウミニナやアサリの貝殻が大量にあったが、現在は全く無い。
原因は様々だろうし、現状がただちに悪化なのかもよく分からない。
(以前のように大量に採れるのは富栄養化の結果だろうし、かなりヘドロじみた泥が堆積していた。)
ただ、こうした環境の変化をきちんと把握し、記録しておけば良かったな、と感じた。

本書は、綾川河口ではもう遅いけれど、干潟の生物を手軽にチェックできる図鑑。
干潟の環境を本気で調べようとすると、貝類、甲殻類、魚類、鳥類、ゴカイの仲間と、様々な分野の図鑑が必要となる。
けれども、代表的な生物種は決まっているので、こうした図鑑が一冊あれば、かなり同定が楽になる。
(こうした図鑑に無い種は、それこそ専門図鑑で調べるような種ということだ。)

マメコブシガニ
▲夕陽を浴びるマメコブシガニ。

アナジャコ
▲脱皮直後の(たぶん)アナジャコ。

本書では、カニ以外の甲殻類(ソコエビやヨコエビ)にも視野が届いていることと、ゴカイ類が類書よりも充実していることが特徴。
また、様々な生物種ごとのトピックも盛り込まれており、読み物としても楽しめる。

生物相としては関東が基準のようなので、瀬戸内海における類書、「瀬戸内圏の干潟生物ハンドブック」と組み合わせてチェックすれば良いだろう。
その他の地方でも、大きな干潟を擁していれば、それなりの専門図鑑があるような気がする。

それにしても、子どもに潮干狩りの面白さを実感されることができなかったのは、ショックだ。
僕はまだ過去の経験を語ることができるが、おそらく息子は、潮干狩りの面白さを知らず、伝えることもできないだろう。
こうして世代を重ねて行けば、当然いつかは「干潟なんてどうでもよい」という世代が生まれるだろう。

ちなみに5月の連休、綾川河口はまた凄い人出だったが、
あの時に来ていた子供たちが抱く経験と記憶を思うと、本当に残念な気持ちになる。
(もし沢山採れていたなら、たぶんアサリを撒いたのだろう。)

実体験を伝えることは大事だが、その実体験を伝えられる「場」を残すことが、まず必要だ。

【目次】
第1章 干潟の生物データファイル
第2章 干潟の生物を調査しよう
第3章 「干潟」を知ろう
第4章 見たい・行きたい全国の干潟


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category: 動物

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公共デザインを考える。「電車をデザインする仕事 「ななつ星in九州」のデザイナー水戸岡鋭治の流儀」  

電車をデザインする仕事 「ななつ星in九州」のデザイナー水戸岡鋭治の流儀
水戸岡 鋭治



何年前だかも覚えていないが、以前仕事で九州へ行く機会があり、
ほんのわずかだが、JR九州の特急に乗った。
その時、いわゆる「JR」とは一線を画したデザインに、驚いた記憶がある。
広い車内スペース、上質な素材。
公共交通機関の枠を超えた、別の乗り物だと感じたものだ。

本書は、そのJR九州の車両デザインを行うデザイナー、水戸岡氏による
「電車デザイン」「公共物デザイン」に対する考え方を示すもの。

昨今話題となっている「ななつ星in九州」をはじめ、
JR九州が他のJRとは異なるベクトルを示していることは明らかだ。
そこにはJR九州という会社の風土、方針もあるだろうが、
水戸岡氏による個性的なデザインを具現化したことも、大きな要因だろう。

特急を作る時、路線の所要時間や乗客数、予算等はすぐに決められるものの、
内装のデザインやネーミング、それを生み出す「デザインの物語」はなかなか創ることができない。

むしろ、そうした「デザインの物語」が必要であると気づき、
そこを徹底したことが、JR九州経営陣や水戸岡氏の成功の秘訣なのかもしれない。

「デザイナーの仕事とは、子どもに感動を与えるような空間を生み出すこと」。
また、「デザインとは利用者の立場でつくり上げる、結果的にはサービスである」。
そうした考え方は極めて基本的に正しく、素直に同感できる。

ただ一方で、個人的には、ちょっと腕組みをしたくなる部分がある。
(本ブログではあまり否定的な見解は書かないようにしているので、 嫌な方はスルーされたい。)

例えば、
上質・本物の素材を用いるために山桜を求めていたが、「天然記念物のため伐採できず」(?)、
調達に難航していたところ、
「たまたまJR九州の社員の親戚に山持ちがいて、台風で倒れて敗材と化した山桜を分けてもらった」。

JR九州の内装には自然素材を多用しているが、
「木材一つにしても、職人さんがこの世に二つとない木目や組手、強度を考えて提案してくれる」。

800系新幹線の車両デザインを「縦長」(縦に3段並ぶ)にしたところ、
三段形式の光源メンテナンスの手間など反対意見もあったが、最終的に受け入れてもらった。

上質なデザインを求めた美談なのだろうが、僕としては、維持するコストがきちんと了解されているのだろうか、と気になる。
そこはかとなく、水戸岡氏のデザインの「成功」の裏に、
最初に創り上げる時には良いものの、5年、10年と経過し、メンテナンスが必要となった時には、
現場の作業員や資材調達において、通常より大きいコストを強いる可能性があるのではないか、という点だ。

デザインは最初が勝負だが、維持はそこから数年、数十年続く。
そこを見据えたデザインこそが優れたデザインだろう。
これまでデザイン性の評価が高い施設や、デザイン性を重視した施設で仕事をする機会も多かったが、
正直なところ、機能性とメンテナンス性の先見性は無いな、と感じるものばかりだった。

こうした違和感の底には、おそらく僕が、水戸岡氏の仕事に対するスタンスそのものに納得できないためだろう。

賛否両論あるだろうが、水戸岡氏は「会議にしても欧米人は自分の都合を押し付けて合理的に論破することを得意とする」が、
「日本人は無意味な競争を避け、何かの決定をする前日に酒を飲みながらお互いを理解し、最適な答えを見つけ出すために話し合ったりします。/そのようにして知的な答えを見つけてきたのも確かです。それには質の高い、戦いをしない、平和と質素を保った日本人の良き民族性が基本にあると思います。」と語る。

だが、果たして会議前に、限られた一部の人間によって妥協することが良いことなのかと、常々疑問に思う。
プロジェクトにおいて、様々な立場の者が、解決策を見つけるための会議で合理的に論議することは、当然である。
そこに前日の酒だけの何だの、個人的な関係・感情を入れ込む方がおかしくはないか。

こうした精神論的な仕事論を示されると、
上記のようなメンテナンスの手間増、代替素材の入手困難性というリスクを
将来のメンテナンススタッフが負うことについて、「合理的な理解」が得られているのかと不安になる。

正直なところ、水戸岡氏のデザインの「成功」は、
実は氏と、氏のスタンスに共感しているJR九州経営陣のタッグによって生み出された、
「スタートダッシュ時の成功」ではないのだろうか。

あまり批判するようなものでもないが、最後にあと1点、納得できない部分を取り上げておく。

ある都市の「サイン計画」(道案内の標識等だ)で、発注者が
「初めて来た人がすぐに分かるサインをつくってください」と言ったところ、水戸岡氏は次のように言う。

「このような要望をいつも断ります。
 なぜならば、どんなサインをつくったとしても六〇%くらいの人がわかるのが限界だからです。
本当に重要なのはそこに訪れた人がサインを見ながら次第に学習してわかるようになっているサインか
どうかなのです。」

「たとえば、子どもやお年寄りにわかりづらいからといってそこを基準にすればいいというわけではないのです。
公共デザインの美しさとは、みんなが使う場所だからこそ一度きちんと学習する必要があるのだと私は思っています。つまり、何回も来てわかっていくというのが正しいサイン計画なのです。」

「どんなサインをつくったとしても六〇%くらいの人がわかるのが限界」だからこそ、
それを100%に近づけるデザインを求めている。100%が無理でも、
初見で80%、いや65%でも良い、より初見で分かるサインが公共の場では必要だ。

なぜならば、そのサインを本当に必要とするのは、「何回も来て学習できる人」ではなく、
「初めて来た人」、「子どもやお年寄り」、「何回来ても学習できない人」だからだ。

どうも、「良質なもの、優れたもの、上質なものをデザインを提供しているのだから、
それが感じられない、理解できないのは利用者側の責任だし、
維持できないのは会社の責任だ」という雰囲気が感じられてならない。

もちろん、全くの個人的な意見である。世の中には僕のように偏狭な人間もいるという例に過ぎない。

【目次】
Part1 プロデザイナーとしての心構えと仕事術
第1章 総合的で創造的なデザインをめざす
第2章 デザインの基本、デザイナーの原点
第3章 日本の良さを活かすデザイン
Part2 デザインの現場
第4章 鉄道デザインの裏側
第5章 公共デザインの裏側
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category: 技術

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古代史上、最初に天皇家に迫った豪族の実像とは。「蘇我氏 ― 古代豪族の興亡」  

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)
倉本 一宏



学校で学んだ日本史において、卑弥呼や聖徳太子が頑張った後、
初めて「政変」として印象に残ったのは、大化の改新だった。
「むしこ(645)ろす大化の改新」と僕は覚えたのだが、
現在は「大化の改新」は以降の政治改革であり、
蘇我入鹿が暗殺された事件そのものは「乙巳の変」という。

また、奈良の石舞台古墳は、その蘇我入鹿の祖父、蘇我馬子の墓とも言われるが、
封土は剥がされ、墓は暴かれるという措置を受けている。

古代において圧倒的な力を持っていた蘇我氏は、
一見、大化の改新以降は、歴史の表舞台から消滅してしまう。

学生時代に日本史を学んだ際、なぜこれほど権力があったのか、
また、なぜこれほど否定されたのかが漠とした疑問だった。

本書は、その蘇我氏という氏族の成り立ち、
そして権力を把握し、維持する仕組み、
さらに、乙巳の変以降の蘇我氏一族の変遷を辿るものである。

まず、蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿という人物が、
いわゆる「本家」であり、他にも分家的な氏族にあわせて政治権力を握っていたこと、
天皇家への影響は、後の藤原家のように外戚関係によっていたこと、
また、まだ集権化が不十分だった天皇家自体も、蘇我氏との姻戚関係によって権力への権威付けを行ってきたこと等、
なぜ「蘇我氏」が権力者たりえたのかという点について、詳細に解説する。

そして、乙巳の変を経て本家筋が絶えた後も、
分家筋や、改姓によりしたたかに続く蘇我氏の姿。

だが、次第に、時の流れと共に、
一官僚としての地位しか確保しえなくなる最後の姿など、
日本史の教科書だけでは知り得ない、
栄華を誇った豪族の興亡が描かれている。

日本古代の豪族には、それぞれ失われた謎も多く、
例えば「葛城氏」についても、
謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)」(レビューはこちら)という本がある。

日本が律令国家として成立して以降は、紆余曲折もあるものの、
それなりに天皇家を中心とした一筋の道を中心とした歴史を辿っている(と、感じている)。
だが律令国家以前は、名実ともに天皇家が圧倒的に権力を握っていたわけではなく、
「実」力は、様々な豪族にこそあったのだろう。

その中で、なぜ天皇家を中心としたシステムが成立したのか。
また、なぜ天皇家だったのか。
そして、当時の豪族筋は、どのように以降の歴史を生き延びているのか。

学校で習う「蘇我氏」という氏族だけでも、
まだまだ知らない・分からないことが多いということを実感する一冊であった。

【目次】
第1章 蘇我氏の成立と稲目
第2章 大王推古と厩戸王子と島大臣馬子
第3章 豊浦大臣蝦夷・林太郎入鹿と乙巳の変
第4章 大化改新から壬申の乱へ
第5章 律令官人石川氏と皇位継承
第6章 ソガ氏への復帰
第7章 摂関期における生き残り
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そもそも、文系・理系の区分は成立するのか。「文系の壁」  

文系の壁 (PHP新書)
養老 孟司



バカの壁 (新潮新書)」にちなんだ、柳の下のドジョウタイトルである。
養老氏が調子に乗っているわけでなく、出版社が養老氏のネームバリューを利用して目論んだものであろう。
養老氏と4人と対談形式をとっており、登場する話者は、
『すべてがFになる』等の推理小説作家・工学博士の森博嗣氏、
脳科学者藤井直敬、「スマートニュース」の運営者の鈴木健、『捏造の科学者 STAP細胞事件』の毎日新聞記者・須田桃子氏。
こうした対談集では、結局のところ話者とテーマが全てだから、
まずは「興味ある人か否か」をチェックしていただきたい。

というのも、
真っ正面から「文系」「理系」を論議しているのは第一章・森博嗣氏のみで、
以降は「理系」というより、現在の科学研究の現場論のような感じだからだ。

僕は、そのリアリスティック・論理的な思索に惹かれている森氏と、
養老氏の対談だけが目的であったので、まあそれなりに楽しめた。

ただ人によって興味が異なることから、好みの章もわかれるだろう。

さて僕は、「理系」「文系」という区分は、正直言って無意味だと思っている。
百歩譲って、学校教育では「理系」「文系」というコース分けはあるにしても
(ただし、数学ができるのが「理系」という区分は無意味だと考えるが)、
個人の資質として、「理系」も「文系」もない。

まず学校現場において。
一般に、国語ができるのが文系、数学ができるのが理系とされる。
だが、学問において-生物学・天文学・社会学その他の学問があるが-、
国語と数学は、やや異なる位置にある、と思う。
それは、それら自体が学問という「スキル」であるだけでなく、「ツール」でもあるからだ。

論理的思考、理解、分析、第三者への説明。

学問のみならず、商売でも何でも、
国語と数学は、
何かを確実かつスムーズに整理し、また誤解の余地がないように第三者に説明するツールとして必須である。

学校の試験とは、その時点において、どちらのツールの習熟度がより高いか、という評価であり、
それがその個人の論理的思考や研究志向と一致するものではない。
(もちろん、個性によって国語・数学のいずれかのツールに習熟しやすい、という差はあるが、
 その個性が将来にわたって決定的な意味を持つものではない。)

また、様々な学問において、国語・数学のいずれのツールがより重要か、
というものはあるにせよ、
ある時点において、そのツールへの習熟度が不十分であったとしても、
それを研究する素質が無いということとは直結しない。

まして、10代の一時期に、
国語・数学のいずれのツールにより習熟しているかだけで、
その個人の資質や将来性が決定する筈もない。

いわゆる「理系」と呼ばれる人でも、非論理的な人は多いし、
「文系」でも原理・原則からの論理的展開を重んじる人は多い。

むしろ、数学ができる=理系 という先入観と教育が、
逆にいわゆる文系分野における数学的分析を遅らせたり、
理系分野における説明不足を招いているのではないか、と思う。

それどころか、文系・理系というラベル付けによって、
「数学は(国語は)自分には向いていない/不要だ」と主張する根拠にまでなり、
個人の生涯の学習範囲を狭める弊害すら、ある。


なかなか気になるテーマだけに、もっと深く考えてみたく本書にも期待していたのだが、
残念ながら前述のとおり、本書では「理系」と「文系」を取り上げたのは一章のみ。
しかもその定義、各話者の意味づけ自体が曖昧で、
それを突き詰めるために放談している過程で終わってしまったような感がある。
不完全燃焼、と言わざるを得ない。

とりあえず、日本的かつ学校教育的な見方、
「数学ができるのが理系」という短絡的な考え方はおかしい、という点がスタートしているのは、
まあ当然の話。

その上で、お二人は
・文系は、自分の分からないことを言葉で割り切るデジタル。
 理系は、「なぜなのか」を突き詰めるアナログ。

・理系は「言葉」ではなく、同程度の知識がある範囲において、
 「論理」で通じあう。

という視点を提供する。なかなか抽象的だが、一つの例として
森氏は「わからない」という言葉の用い方を提示する。

文系では、自分に反対する人の意見を「わからない」と言う人が多い。
しかしそれは、理解できていないのではなく、「わかっているけれど賛成できない」という意味。
理系では、「わからない」と言えば、素直に理解できていないということ。
文系的な「わからない」を言う場合、
「君の言う意見は理解したが、それに対する反対意見を持っている」と言うだろう。

確かにこういう使い分けはあるかな、と思うが、
ただこれが「文系」「理系」の差かというと、すとんと納得するには、不十分だ。

だから、たぶんもっと対談を進めていたり、
もっとベースとなる定義、事例が整理されていれば良かったのだろう。

また社会的にも、「文系」「理系」という区分は、
本当はもっと議論し、整理しておく必要があるだろう。
毎年多くの若者が、この不可思議な区分によって、自らの夢や進路に制限を受けているのだから。
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category: エッセイ

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