ちょっとヨクナレ ~読書と日記~

自然科学、歴史、ノンフィクション等の読書記録

ネットにしか逃げられない絶望が有る。「Dr.キリコの贈り物」  

Dr.キリコの贈り物
矢幡 洋



1998年。どうやってインターネットに接続していたかすら忘れたが、
確かISDNを引いていた、ような。
必要がある時間だけネット回線を接続してた筈だ。

常時接続なんて夢のまた夢だったが、
この数年後にその夢は現実になっていった。
そんなインターネット黎明期だからこそ、ショッキングに報道された事件がある。

それが本書で取り上げられている、ドクター・キリコ事件。

ネットを通じ、「ドクター・キリコ」から青酸カリを購入した女性が死んだ。
匿名性を利用した無責任かつ凶悪な犯罪と報道されていたが、
後日その「ドクター・キリコ」とされる人物も、青酸カリで服毒自殺し、事件報道は減少していく。

ただ、ドクター・キリコが「青酸カリは自殺を止める道具として送った」と主張していたらしいと何かで見聞きしていて、なんとなく真相が気になっていた事件である。

本書は、精神科医が本事件について、関係者からメールにより聴取した話等に基づき、
事件の概要と本質を分析した一冊。
事件が、実は報道とは全く異なる面があったことに、改めて驚かされた。

まずドクター・キリコ(別のハンドルネームは草壁竜次。以下、草壁氏と記載)自身、
愚直なまでの正義感のために疎外され、自殺志望があった。
だが、自殺のために青酸カリを手に入れたことから、事態が変わる。
「いつでも死ねる」という安心感が、「とりあえず一日」を生きる力となり、
「とりあえず一日」が増加していったのだ。
「確実に死ぬ手段」を手にしたことにより、強迫的な自殺志向が克服されたのである。
この特殊な体験が、草壁氏を動かしていく。

ネット上では、様々な理由から自殺を志向する人々が集う場があった。
その中の一つで、草壁氏は自身の薬物知識から、
死ぬために薬物を集めている人々の相談に乗る。
だがその回答は、「そんな量では実際には死ねない」という、
いわば自殺を諦めさせるようなスタンスのものだった。

その中で、いつしか草壁氏は鬱病等の精神病と診断され、
どうしても自殺を志向している人物に、
最後の手段として青酸カリを渡すことを始める。

ただそれは、実は草壁氏としては、自身の経験を踏まえ、
「自殺をやめさせるための最終手段」だった。
実際、それが効した人物が、本書では紹介されている。

だが、もちろん全てがうまく行く筈はない。
草壁氏の意図に反し、自殺してしまう人が発生する。
それに対し、草壁氏は「責任をとる」ために、自身の命を絶った。

これが本書が示す、実際の事件の構図である。
本書を読む限り、おそらくそうだったんだろうな、と思う。

本書にも収録されているが、僕の想像も及ばないほど悲惨な境遇に陥り、
死を選ぼうとする人がいる。
また、心の病、疲れ、その他様々な理由から、自殺を選ぶ人がいる。
僕自身は自殺はすべきではないと思っているが、
人が選択肢の一つとして自殺を見いだしてしまうことは、必ずあるだろう。

それを防止するのが社会的正義だが、その手段は全ての自殺志向者には届かない。

その隙間において、個人の力で無しうる最適解の一つを見つけたと思っていたのが、
草壁氏ではなかったのだろうか。

その方法が、正しいものでなかったことは事件が証明しているし、
本書著者も分析しているとおりである。

だが、こうした自殺志向者が数多く存在し、
それがネットの中でしか自身の苦悩を吐露できないのが、現実社会である。
草壁氏の愚行(あえて愚行と書くが)を非難することは容易いが、
草壁氏がその手段を見いだすに至った現実社会、
草壁氏の青酸カリを求める人々が続いた現実社会を糾弾するのが、本来の姿だろう。

だが現在の日本を見れば、自殺社会ともいうべき様相を呈している。

本書を読んだのは実は昨年7月なのだが、
その後、神奈川県座間市での自殺願望が有る人々に対する殺人事件が発覚した。
こちらは歴とした殺人事件ではあるものの、
自殺を考える人々が、ネット内でしか相談ではないという状況は、
なんら1998年のドクター・キリコ事件とは変わっていない。

ドクター・キリコ事件の本質に、もっと社会がしっかり向き合っていれば、
この事態は変わっていただろうかとも思うが、過去は変えられない。

しかし、未来は別だ。
現在の自殺社会を、このまま継続するのか、否か。
ドクター・キリコ事件を振り返り、
そして座間市での事件を経験した今こそ、現実を直視する必要があるだろう。



【目次】
青酸カリを抱いて
『安楽死狂会』誕生
心中しませんか
樹海にて
さまよえる援交少女―「あい」の独白
八百屋お七
生と死の闇―自殺・治療構造・虚無の心理分析
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category: 事件・事故

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思考のヒントとしてはいいのだけれど。「99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)」  

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)
竹内 薫



なかなかキャッチーなタイトルである。
著者はNHK「サイエンスZERO」のナビゲーターなども伝えるサイエンスライター。
科学的知識に裏付けられた主張としての「99・9%は仮説」、非常に興味深く読んだのだが、
正直なところ、ちょっと思い付きに引っ張られた感がある。

冒頭、「飛行機が飛ぶ仕組みは、実は分かっていない」という記述。

飛行機が飛ぶ仕組みとしては、かってはベルヌーイの定理という単純な理論で説明されていたが、
現在は翼の周囲に空気が循環する渦が発生し、その結果として翼の上面・下面の通過速度に差が生じ、揚力が発生するという説が定説になっている(理解が誤っていたらすいません)。
ただ、その渦が生じるメカニズムや細かな挙動については、まだまだ未解明な点が多い。

正確な言うと、定説と思われていたのが技術の進歩によって否定され、新しい仮説が立てられたが、
細かな部分についてはまだ解明されておらず、絶対的に正しい理論とまでは言えない、というものだ。

これを「分からない部分がある」と言うか、「分かっていない」というかは、もちろん個人の自由である。
もちろん自然科学的には「分かっていない」というのが正しいスタンスなのだが、
その「自然科学的に正確な物言い」と、「社会的な説明」は完全一致する必要があるのか、というのが疑問の第一。

申し訳ないが、社会はそこまで「自然科学的正義」を求めていないのではないか。
むしろ、
竹内氏のような「科学に詳しい人」が「飛行機が飛ぶ仕組みは分かっていない」というのだから「間違いない」。
なのに飛行機を飛ばして事故が起きたら、それは整備不良などではなく、
「飛ぶかどうか確実ではない飛行機」を飛ばしたからだ。
という、短絡的な主張に利用されることの方が多いのではないか、と思ってしまう。

絶対的な解明がなされていないというのはいくらでも在ることで、
それこそ宇宙の成り立ちも解明されていない。
極めて詳細な振る舞いまで完全解明された事象の方が少ないのではないだろうか。
そういう意味で、本書の主張はごく「当たり前」のことなのだ。

本書でムムっと感じるのは、そうした自然科学的正義による物言い、
「分からない部分がある」と言っても良い点を、「分かっていない」と断言する正義を、
その他の事象や社会的事項にまで適用するというところ。

例えば気になるのは、冥王星が惑星か否か、と言うテーマ。
今は準惑星という位置づけだが、その位置づけの変更は話題となった。
本書ではそれについて大部分を割いて事例とて挙げているのだが、

それは「『冥王星は惑星だ』という、多くの人が信じていた事実も『実は仮説だった』から、変わり得るのだ」というもの(本書執筆時にはどういう扱いになるか決定していない)。

だが、「冥王星が惑星か否か」という問題は、「惑星」という定義の問題である。
定義とは人間が決定するものであり、そこに仮か真かなどはない。

すなわち冥王星の件は、
「『冥王星は惑星だ』と判定し得る「惑星の定義」が妥当ではないので、変更する」ということに過ぎず、何かの仮説が崩壊したのではない。
こういう、変更しうるもの、明らかに確定していないものまでも「仮説」と位置付けて、
「だから全て変わって当然なのだ」という主張に結び付けられている感が、どうしても否めない。

こうした自然科学的正義を、
歴史史料の正当性や人間関係や会話の成立にまで適用して解釈されると、
ちょっと行き過ぎかな、という感が否めない。

もちろん、僕の読み方が偏って誤解しているかもしれないので、気になる方はお読みいただきたい。


【目次】
プロローグ 飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていない
第1章 世界は仮説でできている
第2章 自分の頭のなかの仮説に気づく
第3章 仮説は一八〇度くつがえる
第4章 仮説と真理は切ない関係
第5章 「大仮説」はありえる世界
第6章 仮説をはずして考える
第7章 相対的にものごとをみる
エピローグ すべては仮説にはじまり、仮説におわる
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category: 技術

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日本は安全な国では、ない。「日本赤軍とのわが「七年戦争」―ザ・ハイジャック」  

日本赤軍とのわが「七年戦争」―ザ・ハイジャック
佐々 淳行



日本の政治的現状、将来について様々論じられている。
それについて論じることは目的ではないので避けたいが、
留意しておきたいのは、事を論じている僕たちは、自身が知り得る時代背景により、
その思考が制約されているという点である。

混迷する海外諸国に比べ、それでもテロの多発とは無関係に平和な日本。
そして過去の知識になると、一足飛びに太平洋戦争となる。
そこを直結して考えがちなのだが、
おそらく重要なのは、昭和35年(1960)から昭和55年(1980)までの時代である。
1970年を挟むこの時代は、日本でテロリズムが吹き荒れた時代であった。

その中でも、日本赤軍によるハイジャック事件に焦点をあて、
当時の多くの事件に関係者としていた佐々氏による記録が、本書である。

「よど号」ハイジャックに始まった、日本におけるハイジャック。
よど号事件では犯人自身が「ハイジャック」という言葉を知らなかったが、その成功をふまえ、
以降の日本赤軍はハイジャックを有力な武闘手段として展開していく。
ハイジャックによる身代金入手、海外逃亡、そして過去に逮捕された仲間の超法規的釈放要求。
これらを連鎖させたのが日本赤軍である。
中にはテルアビブ空港での乱射といった恐るべき事件もあり、間違いなく当時、
日本は世界有数の「テロリスト輸出国」だった。

北朝鮮の工作員が日本で多数活躍していた事実。
(「私を通りすぎたスパイたちレビューはこちら )

「よど号」の犯人が北朝鮮で飼い殺しされておらず、
実は北朝鮮の工作員として、さらなる日本人の拉致に関与していた事実。
(「宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作 (新潮文庫)レビューはこちら )

日本赤軍が爆弾テロを多発していた事実。
(「狼の牙を折れ: 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部レビューはこちら)

そして本書のように、テロリストがテロにより超法規的釈放を受け、
更なるテロを行う事実。

これらの事実を踏まえれば、少なくともテロやスパイ活動を、
そのままテロやスパイとして裁けない当時の日本の状況が、
事態をより悪化させたことは明らかだ。
(上記の諸本を読んでおけば、その全てが連携していることが本書でも確認できる。)

そうした時代背景を踏まえたうえで、本来は現代日本に必要な法制度を考えるべきであり、
「今の平和な日本には必要ない」「すぐに太平洋戦争のような状態になる」という思考は、
その懸念は十分分かるものの、やはり片手落ちといえるだろう。

世界各国で繰り返されるテロ。
それ日本で起こらないとは限らない、という主張を笑う人は多いが、
かつては日本でテロが多発し、
それどころか日本人が諸外国でテロ活動を行ってすらいたという事実を知ることが、
今の日本に必要なのではないか。


第1章 『よど号』ハイジャック
第2章 『よど号』模倣犯ハイジャック
第3章 テルアビブ空港乱射事件の衝撃
第4章 ドバイ日航ハイジャック事件
第5章 シンガポール・シー・ジャック事件
第6章 逃走した「ハーグ」「スキポール事件」
第7章 切歯扼腕のクアラルンプール事件
第8章 最悪のダッカ・ハイジャック事件
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category: 事件・事故

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探検家たらんとする情熱の記録。「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」  

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む
角幡 唯介



チベットの奥地、ヒマラヤ山脈の東。
ナムチャバルワ(7,782m)の近辺を流れるヤル・ツアンポー川は、険しい峡谷と大きな蛇行、聖域と見られていたことなどから、長く全貌が不明だった。
1884年、アッサムの測量責任者であったヘンリー・ジョン・ハーマンはキントゥプに潜入探検を命じる。
キントゥプは様々な苦難の後、口述による報告書において「45mの大滝があると」と記述。
ツアンポー渓谷の標高と川の落差から考えれば、この大滝もあながち嘘とは考えられず、
キントゥプの報告書にのみ存在する「大滝」の確認は、いつしか世界の探検家の間で「最後のロマン」と見做された。


1913年には、フレデリック・M・ベイリーがツアンポー川の流路を解明。
1924年、フランク・キングドン・ウォードが2つの滝を発見するが、「45mの大滝」ではなかった。
また同時に、峡谷の未確認地帯(空白部)が残り5マイルであると報告する。

この残り5マイルに、もう滝は無いだろうというのがフランク・キングドン・ウォードの見解だったが、
これを自身の手で確認しようと考えたのが、早稲田大学探検部に所属中の若き著者だった。

ところが1993年には日本のTVクルーの一員であっカヌーイスト、武井義隆氏が遭難死。
また同年、イアン・ベイカーが遂に未踏査地帯の一部を踏破する一方、ブリーシヤーズが空白地帯上流部の虹の滝からすぐ先に新たに幻の滝を発見するなど、「空白の5マイル」は次々と解明されていく。

人生の目的をツアンポー渓谷の探検としていた角幡唯介は、
そこに焦りと、苛立ちを感じながらも、
自分の人生をその身に感じるために、ついにツアンポー渓谷に残る最後の未踏査地帯を探検する。

本書はツアンポー渓谷の探検史であり、その隠されたベールが剥がされる一方、
「探検家 角幡唯介」が生まれ、育っていく記録である。
全編にかかる重いムードは、探検家たらんとする角幡氏の葛藤の反映だろう。

結果的に、角幡氏は新たに未知の滝と巨大洞穴を発見するものの、
本書に綴られた行動は、実際のところ探検とは名ばかりの無計画・無鉄砲な行動である。
第三者的な眼からみれば、これを探検というべきか悩むほどだ。

ただ、いつの時代もこうした潜在的な探検家は存在する。
そう考えれば、角幡氏の無謀な行動も、「生まれつつある探検家」だからこそ、と言えなくもない。
(実際、数十年前ならそう捉えられていただろう。)

そうした探検家としての運命を考えれば、
本書は探検すべき地域がほとんど無くなった時代に生まれた「探検家」の悲しみの本、とも言える。

血沸き肉踊る冒険ではない。
緻密な計画や冷静な判断や、明確な計画があるわけでもない。
そこに在るのは、ただ探検家たらんとする情熱のみである。
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category: ノンフィクション

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秒速8kmの壁を超えて。「女房が宇宙を飛んだ」  

女房が宇宙を飛んだ
向井 万起



君について行こう―女房は宇宙をめざした」(レビューはこちら)の続刊である。
前著では向井千秋氏と万起男氏の出会い、そして千秋氏が宇宙飛行士を目指し、
1994年にスペースシャトル・コロンビア号での飛行を果たすまで、が描かれていた。

本書は向井千秋氏が登場したスペースシャトルの発進から帰還、
そして千秋氏が全てのミッションを完了するまでの日々が、万起男氏の目線から描かれている。

前著同様、万起男氏の本シリーズの特徴は、その立ち位置だ。

宇宙飛行士の家族という、プライベートでは最も身近な存在。究極的には最も内部の人間である。
ところが、NASAのミッションにおいては、明らかかつ完全に部外者であるという、異質性。

これをうまく両立させ、独自の視点で記録化しているのが、本書である。
千秋氏と万起男氏という不思議な夫婦の愛と信頼の記録とも読めるし、
また千秋氏に密着したルポとも読み得る。

また同時に、今は終わってしまったスペースシャトルというミッションにおいて、
宇宙飛行士にいかなる役割分担が有り、苦労が有り、努力があったのかという記録として読むことも、可能だ。

「飛べるかどうか分からない」という不安な時期があった前著と比して、
既に飛び立っている本書では、基本的に明るさの度合いが異なる。
その分、どうしても万起男氏個人の不安が多く描かれるが、それはやむを得ないだろう。

ところで、地球に帰還した千秋氏が最も不思議に感じたのが「重力」の存在であるという。
この点については、もしかすると他の宇宙飛行士の手記やインタビューで書かれているかもしれない。

だが、千秋氏が重力を一日一日実感していく様子、
そして帰還から4日後の夜、ぽつりと
「私の体は、もう、まったく重力を感じなくなってしまった」(=重力が当たり前になった)という言葉を漏らすシーンなどは、
夫婦という立場にある者でなければ知り得ないシーンであり、
この一言を知れただけでも、本書の価値はあるというもの。

こうした立場になり、しかも文章化できるという人は、今後たぶん出てこないだろう。

そう考えれば、本書が極めて得難い一冊であることが理解できる。
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category: 技術

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